妄想本棚

□ひとしずくのあなた
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【ひとしずくのあなた】


星のない夜だった。
月は煌々と夜空を照らしており、窓辺であれば灯火がなくても手元が覚束なくなる心配も余りない。
「おぬしはそつがないのう」
干した杏を一つ口に放り込んで、太公望は感心した。
窓辺の余り広くもない台には、干した果物や木の実が並べられ、ささやかながら酒席の場となっている。
それらを用意したのは部屋の主たる太公望ではなく、半刻程前に訪れた客――楊ゼンだった。
「お褒めにあずかり光栄です」
恭しく頭を下げると、楊ゼンはくすりと笑った。
「あなたの喜ぶ顔が見たい一心で、ですよ」
太公望の盃に酒を注ぐ手付きは、何とも優雅で美しい。
「魚心とかいうやつか」
白い夜着姿の少年は、そのあどけなさの残る見た目にそぐわず、盃を軽くあおって飲み干す。
「人聞きの悪い。だからあなたの笑顔が見たいだけですよ」
彼の美貌に憧れる女官が聞いたら嬉しさに卒倒しそうな言葉を、惜し気もなく太公望にかける。
そして酒瓶を今夜幾度めか、酒豪の盃に傾けると、その重さの変化に気付く。
「ああ、残りあと一杯位ですね」
「ん? おぬし、わしに注ぐばかりで呑んでおらぬではないか」
太公望が今更気付く自分に少しばつの悪そうな顔をした。
「あなたに呑んで戴きたかったのですから、いいのですよ」
「だがのう、わしが独り占めというのも…」
そして『今更ながらに』が、もう一つ。
「盃を一つしか持って来んかったのか」
手元不如意になってないつもりが、相手の手元を全く見ていなかったのだ。
おそらくは、楊ゼンが巧みに気付かせないように気遣ったと思われるが――それでも申し訳なさが立った。
「旨いものは、分け合うともっと旨いのだぞ」
「それほどおっしゃるのでしたら――最後の一杯を戴いてもいいですか?」
太公望の気持ちが嬉しくて、楊ゼンは微笑んだ。
「うむ!」
太公望の表情が晴れ、手元の盃を楊ゼンに差し出した。
「別の盃をお借りします」
「別の?」
この場にある杯は楊ゼンが持参したものだけで、そんな気のきいたものは太公望の私物にはない。
一体何を言っているのかと太公望が首を傾げると、右手に楊ゼンのしなやかな指先が触れた。
「手のひらを上に向けて下さい」
「う、うむ」
言われるがままに、右の手のひらを差し出すと、楊ゼンの左手がそっと添えられた。
その触れ方が余りにやさしく、艶めいた仕種だったので、太公望の胸がどくんと鳴った。
それに気付かれないようにと焦っているうちに、右手に冷たい感触が走った。
「何、を…!」
太公望が問い質す間も無く、小さな手に酒が注がれた。
盃一杯程の酒は、僅かに手のひらから溢れて手首から肘へと流れ落ちていく。
ちゅ…。
楊ゼンの形のよい唇が、盃となった手のひらにくちづけ、酒を味わった。
ゆっくりと、一口。
次いで手のひらに舌を這わせると、溢れ落ちた一滴を追い、手首から肘へと――。
「…っ、楊…ゼン」
ぴちゃり、と音をたてて滴を飲み干すと、楊ゼンはうっとりとした笑みを浮かべた。
「ああ…、本当に美味しい酒ですね。甘くて――ほんのりとあなたの匂いがする…」
その幸せと色気に彩られた表情を見ると、太公望はしてやられたと言わんばかりに顔をしかめた。
頬も耳も、これ以上ない程に赤らめて。
「謀りおったな」
「そんな滅相もない」
罪悪感の欠片すら見えない表情が憎たらしい。
「あなたを悦ばせたいと、言ったでしょう?」
太公望の右手に添えていた左手で、華奢な躯を抱き寄せる。
「漢字が違うぞ、さっきとは」
「次は多分、こちらの字の方が合っているかと」
「水心め」
月明かりはやさしく照らすが、色彩に欠ける。
酒精の影響ではなく、赤くなった顔を見られずに済む事に太公望はほっとした。
自分を抱き締める青年は、鮮やかさを失った世界でさえも美しいのは、反則ではないかと思いながら。
そしておそらく――極上の酒にも劣らない悦びを、太公望に与えてくれる。
部屋に通した瞬間から解っていた事ではあるけれど。
「太公望師叔…」
その囁きだけでとろけてしまいそうな、楊ゼンの甘い声が耳から躯全体にに響く。
水心があったのはむしろ自分だったのだと、ぼんやりと太公望は思った。
「楊ゼン…」
唇が小さく青年の名を紡ぐ。
その小さな声も蜜のように甘く、とろりとしていた。
美味しいものを分けあえば、確かにもっと美味しくなるけれど。
「師叔…触れさせて下さい」
太公望はうつ向いていたが、小さく頷いた。
こんなにも甘い至極の蜜は、独り占めするからこそ更に甘くなる事を楊ゼンは知っており、それを誰かに教える気など全くないのだった。





〈了〉
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