妄想本棚

□春の標(しるべ)
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「春だのう」
「春ですね」
うららかな陽射しに風は穏やかで、自然とのんびりとした口調になる。
太公望は縁側で気持ち良さそうに日向ぼっこをする猫のようで、今にもごろごろと喉を鳴らしそうだった。



【春の標(しるべ)】



今この瞬間この場所はとても長閑で穏やかで、戦だとか策略だとか、そんな血生臭い話は別次元の事のようだった。
目の前の少年の姿をした人物が戦を起こそうとしているなど、楊ゼンにはとても不似合いでいびつに見える。
「仙道が人間の国の政治を好き勝手に弄る方が、よっぽど歪んでおるのだ」
わしも含めてな、と自嘲的な声が続く。
「あなたは――、太公望師叔は玩んでいるのではないでしょう。民の為に動いておられるのですから」
「妲妃や聞仲と変わらんよ」
周の軍師たる太公望は、民の戦――戦闘そのものに仙道としての力を使うつもりはないが、それまでの経緯にはどうあがいても仙人界のしがらみがまとわりつく。
それを重々承知の上で、それさえも利用しているのだ、と軍師は語る。
「わしが仙道である限り、どんな理由や建前があっても、後々の世の人間から見たら大差ないだろう」
だからと言って、一度掲げた旗を降ろすつもりもないのだ、この聡明で確固たる信念を持った人は。
「人の世が正しく使われるようになって、今のわしらがボロクソに酷評されれば本望だ」
人の悪い笑みを浮かべ、さもない事のように平気で嘯く。
「…手が空いているうちに、お茶にしましょう」
太公望が自分自身に対して大して興味も執着もない事は、付き合いがそこそこ長い楊ゼンはよく知っている。
だけど――だからこそ、偽悪的な言葉を余り聞きたくなくて――話させたくなくて、会話を変える。
言葉には力が宿るから、いつか彼が彼の言葉で、彼自身を傷付けてしまわないようにと。


「香草で淹れたお茶です。蜜もお好みでどうぞ」
「いい香りだ」
茶の香りを愉しむと、小瓶に入っている蜜を一滴残さず注ぎ入れる少年は、言わずもがな大の甘党である。
執務室に居るのはこの二人だけで、武王と周公丹は書庫で調べもの、他の文官たちもその手伝いをしている。
出来れば一分一秒でも長く、向こうで過ごして欲しいものだと期待しながら楊ゼンも茶を口にする。
きっと、進軍が始まればこんなふうに二人でゆっくりと茶や会話を楽しむ時間は持てないだろう。
太公望と共に過ごす時間は不思議と楽しく、素の自分でいられる気がした。
陽射しを心地好く感じる事も、風に髪を遊ばせて擽ったさに笑う事も、きらめく星空をただ眺める事も。
その程度の余裕が無くても、以前の自分なら何も窮屈に思うことはなかった。
放っておこうが足掻こうが四季は勝手に巡るものだし、そもそも季節の移ろいに大して興味もなかったのだ。
花を見れば美しいと思う時もあったが、それ以上でも以下でもない。
花は咲いたら散るのが理(ことわり)で、その次は種類によっては実がなるものとそうでないものとに分けられるだけ。
食に執着もないから、その実が食べられようが食べらまいが、気にもならない。
それは仙道としての膨大な知識の中の、さして重要でもない枠にある一粒だ。
楊ゼンが生きる為に必要な環境は、幼い頃は「秘密を守る」為に力のある者の保護の元が大前提だった。
長じて比類なき天才と呼ばれてからは「修行に専念できる」場所で、仙号を得ても道士のままで居ればそれは叶う事だから、どこでも構わなかったのだ。
それで充分だった。
その規準が、今の楊ゼンには当てはまらなくなってしまったのは――。
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