妄想本棚

□ふたつの魔法
1ページ/3ページ

この人に触れたいと想う気持ちは多分、本能に似ている。
息をするように、
水を飲むように、
眠るように。
それ位この気持ちは当たり前なのに
でも、特別で。
この人にしか向かない気持ち。
この人――だけ。
本能よりもっと芯に近くて
飽きる事なく成長し続けている。


魔法のような、あなた。



【ふたつの魔法】



「む?」
「あ」

この場所を知っているのは僕とこの人だけだ。
そう言い切るには些か語弊があるかもしれないが、少なくとも僕たち以外にここへ来る者は無く、誰と会った事も無い。
城の庭園と森の境などというものは有って無いようなもので、そんな場所は目立たないのか春になれば見事な花を咲かせる桜はいつもひっそりと佇んでいる。

「奇遇ですね」
「奇遇というより、計って来たのだろう? おぬしは」

やわらかな午後の陽射し、風は穏やかで暖かい。
つい先刻、ここ暫く机で山を成していた仕事を漸く片付け終えたところで、次の資料が揃うのは明日という報告が既に届いている。
となれば…
「昼寝以外にする事も無いしのう」
歴史を――人間界や仙人界を左右する大きな戦を控えてるとは思えない程のんびりした声で、軍を統べるこの人――太公望師叔は欠伸をした。
「でしたら枕がご入り用かと思いまして」
「枕?」
大きな桜の根元に陣取った師叔に、躯が冷えないよう肩布を外してその華奢な肩に掛ける。
そして彼の右隣にすまして僕も腰を下ろす。
「僕はあなたの有能な片腕、ですから」
そっと引き寄せて、左腕に小さな躯を凭れ掛けさせる。
「枕のう」
くすくすと師叔は笑い、軽く躯を弾ませて僕に寄り掛かった。
「幹よりはマシか」
「幹よりって…。この枕は気持ち良く眠れますよ」
笑い続ける師叔に僕もつられて笑う。

この人が笑うだけで、その瞬間は僕にとってとても大切な時間になる。

「手…繋いでもいいですか?」
腕を伸ばし師叔の右手を捕まえると、笑いは一転し焦りを帯びた声がした。
「誰ぞ人に見られたらどうする」
「僕は一向に構わないのですが…。そもそもここには他に誰も来ないから、太公望師叔は休む為にわざわざ足を運んだのでしょう?」
「ぬぅう…枕の分際で揚げ足を取りおって…!」
口調は怒っているが抵抗はしない。
僕はそれをいい事に師叔の手を覆っている大きな手袋をするりと外し、直に素肌に触れた。


小さくやわらかな手。
ほんの少し、冷たい手。
いつだって僕はこの手に触れていたい。


指を絡めたり甲を撫でたりし、その心地良い感触を僕の中に刻み込む。
それは何物にも代え難い、僕の宝物なのだ。
本当に厭なら振り解く人だから、やはりさっきの口調は気恥ずかしさから来たのだろう。
癖のある髪に見え隠れする耳が、ほんの少し赤くなっている。
触れ合うことを愉しむ前にどうしても身構えてしまうこの想い人に、僕は愛しさと僅かなもどかしさが込み上げて、指にそっと口づけた。

――もどかしいと思うのが僕の身勝手だという事は、厭になる程解っていたけれど。


「…!」
凭れ掛けさせている左腕から、師叔が息を飲んで躯を強張らせるのが伝わって来る。
「すみません、驚かせてしまいましたか」
もっと口づけたかったけれど困らせたくてやった訳では無いから、手のやわらかさを名残惜しく想いながらもそっと唇を離した。
「否…」
師叔もそれ以上は何も言わず、繋いだ手を振り解く事もしなかった。
ちらりと僕を見上げて、唇が何かを言いたそうに薄く開いたが――数瞬の後、閉じてしまった。
次へ

[戻る]
[TOPへ]

[しおり]






カスタマイズ