妄想本棚

□戻れない明日
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 心地よく、苦しい――。
 楊ゼンの力強くやさしい腕の中は、常にそんな場所だった。
 青年の腕と髪と胸がつくるそこは、ずっと前から自分の為だけに用意されたと錯覚したくなるような甘美な檻。そっとくるまれれば、張り巡らせていた緊張が少しずつ解けていく。

 人の世の仕組みを変えようと――数多の人命と未来を仙道との繋がりを断ち、あるべき姿に導きたいと願う。
 それは同時に同じ数の――もしくはそれ以上の――人命と未来を奪う事、でもあるのだ。それが戦争で、それを仕掛けたのは自分。
 指揮を執る身として、緊張感は寧ろなくてはならないものである。纏い、担い、背負うのが己の役目であり公人としての務めと心得ていた。


ねえ、師叔――
張りつめてばかりの弦ではすぐに切れてしまいます。
僕と二人だけの時は、戦の事など忘れてしまいなさい。
肩の力を抜いて下さい。
そう、ゆっくりと呼吸を深くして…。
難しい事ではないでしょう?
でもきっと、あなたの心からこの戦の事が消える瞬間などないのでしょうね。
少し、妬けてしまいます。
あなたの心を一番に占めているだなんて…。
――ねえ、太公望師叔。
僕は――僕があなたの苦しみを代わりたいとどれ程願おうと、それは叶わない事なのです。
あなたの代わりは誰にも出来ない。
本当に、出来ない。
だって僕にはあなたの代わりに愛せる人など絶対にいないのだから――。


 あのやさしい檻の中で、何度も繰り返された言葉と口付け。
 強引な理屈付けだと今でも思うし、それは青年も同じだろう。
 楊ゼンの語る言葉は、思いやりに満ちていて、自分には勿体無い程で。
 愛するとか愛されるとかは定義があやふやのようでいて明確なようでよく解らないけれど、大切にされているのは、いくら色事に疎い自分でも疑いようがなかった。



 こうして寝顔にけちを付けられるのも、知らない一面を見付けるのも、互いが命を失う事なく隣にいるからこそなのだ。
 なんて嬉しくて切ない事か――。



 ぽとりと、敷布を濡らすものがあった。
 何かと思う間もなくぽとぽとと小さな染みが広がった。
 肩が動き、浅く忙しない息をしている自分。
 何がどうしたのか訝しんでいると、青年の背中ががぼやけて見えた。そしてようやく、視界を歪めているものが自分が流す涙だと気付く。
「く…っ」
 その瞬間、胸を締め付ける程の息苦しさが襲いかかる。
 容赦なく、心臓を掴み引き千切られるような痛み。
 どくんと流れた血が、体の中で勢いをなくして澱んでゆく。
 皮膚に触れる空気が異様に冷たく、それが顔から血の気が失せていく感覚であるのが自分でも判った。
 耳の奥で不快な金属音が鳴り響いている。
 その間にも涙は止めどなく溢れる。
「…う…ぐっ」
 嗚咽を必死で止めようと、左の手袋を噛み締めるが、声が僅かに洩れる。



――さよなら、望ちゃん。
 いつもと微塵も変わらぬ微笑みで去った友の声。
――楊ゼンを、頼む…。
 立っているのが不思議な程の重傷を負って尚、弟子の行く末を案じる声。
――太公望!
 兄弟子たちの声、声、声――。
 耳鳴りの中で遠く近く、幾重にも重なってこだまのように聞こえる。


 大切な家族を亡くし帰る家を失くしながらも、生き残った誰一人として、先の大戦を理由に太公望を詰る者はいなかった。
 自分がかつて味わった絶望を、自分は彼らに強いてしまったというのに。



 頭が重く、持ち上げる気力すらおきない。
 息苦しさに吐き気を覚える。
 ああ、この痛みは――何度も味わったものだ。
 何度味わおうと、慣れやしないし、慣れたくもない。
――哀しみが、自分の全てを雁字搦めにしていた。


 頭を押さえ付けているのは他でもない自分だ。
 ひゅうひゅうと体に穴でも空いたような息は、じくじくと痛む胸におそらくひびでも入っているのだろう。
 まるで泥でできた人形のように、脆くて汚い。


 何故、自分などが生きて、あのやさしい者達が命を失ったのか。
 何故、などと問うまでもない。自分が弱く、愚かだからだ。
 これが天命――喪うべくして喪った――などと、誰が信じるものか。
 尊い死も、犬死も、生きている者が価値を勝手につけるだけで、生きている者の都合でしかない。
 死はすべからく生命活動の停止で、それ以上でもそれ以下でもないのだ。
 喪うべくして喪う生命などいつの世にもどこの世界にもない筈だ。


 もしも何かを引き換えに他の者が生き返るなら、この腕を、足を、眼を、心臓を――喜んで自分は差し出す。
 けれど、全てを差し出そうとそんな事が叶う訳がない。
 一つの命は一人のもので、何かで代償となるべくもないのだ。
 自分の弱さが腹立たしく、ただただ悔しかった。
 あの日の自分と何も変わっていない。
 妲妃を討つと誓い仙人界に入ってからこれまで、自分は一体何をしていたのだ。



 哀しみと己への怒りは、この先も消える事はないのだろう――生きている限りは。
 そう、この痛みもまた生きているからこそ。
 これら全部を抱えて生きていくしかないのだ。
 喜びも哀しみも、怒りも全てを。
 それが「生きる」事で、義務であり責任であり、亡くなった者たちに捧げられる自分にできる唯一の弔いなのだ。


 忘れてはいけない。
 忘れられる筈もない。
 喪った者たちの声を、息を、存在を。
 共に戦った理由はそれぞれ違っても、同じ時代を生きたその事実を、心に刻まねばならない。



 ようやく涙は落ち着いてきたが、拭けば痕になるし、拭かなければ浮腫みが、昼過ぎまで残る。
 視界が狭く感じるのは、瞼が腫れているからだろう。
「面倒臭い…」
 楊ゼンを起こさないよう、小さくちいさく溜め息をつく。
 手袋に覆われていない右手で、顔に触れる。
 いつも冷たい小さなこの手に救われるのは、こんな時だけだ。ひんやりした感触が、泣き濡れた顔を冷まし、混乱した感情を宥める。
 崑崙山に入山した頃から、淋しさや哀しさで感情を抑えきれず涙が溢れて時は、こうして人知れず隠してきた。
 冷たい手が、涙の熱でぬるむまで。
「何も変わっとらんのか、わしは」
 我ながら呆れる程に成長していない。


 うんざりした気持ちを何とか切り換えようと、改めて青年の寝顔を覗く。
 先程と変わらず規則正しい呼吸が続いている。
「幸せそうな顔をしおって」
 思わず苦笑してしまったが、彼とて心に負った傷は相当深く容易に治る傷ではない。それでもこうして太公望の隣に居てくれている。
 絹糸のような蒼に指を絡めて頬を寄せる。
 青年の匂いが、心なしか息苦しさをやわらげてくれたような気がした。
――本当は、今すぐ助けて欲しいけれど。
 何者の侵入も赦さないあの檻に、閉じ込められたいけれど。

 でも。
 できれば気付かれたくないとも太公望は思う。
 きっとこの青年なら、甘すぎる程やさしいから、気付かない振りをしてくれているのかもしれない。
 もし気付いているとしても、朝になったら何食わぬ顔をしてくれるだろう。


 今は、それでいい。


 それ以上を望むのは、とんでもない贅沢にしか思えなかった。
 すっかりとぬるんだ手のひらを甲に代えると、もう一粒だけ涙が落ちた。
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