妄想本棚

□ゆめうつつ
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「楊ゼン!」


僕を呼ぶ声に。
これは「夢」だとすぐに気が付いた。


声のした方を見ると、そこには
逢いたくて、
逢いたくて、
焦がれていた人の影があった。


【ゆめうつつ】


実際のあの人とは微妙に異なる幾つかの点。
緩いくせのある黒髪は少し褪せた色みをして、深く澄んだ碧の瞳はどこか翳りを漂わせて。
はにかんだ笑顔は――
――あの人はこんな風に幸せそうに微笑んだりしない。
こんな表情を、ずっと、見たいと願っていたのだ、あの人の隣に立っていた頃から。
それはついぞ叶わなかった願い。


「はい」


幾つかの小さな違和感――けれど決定的なそれらが目の前の彼を虚像だと示唆していても、
「夢の中の僕」にとっては本物で、逢えた事が嬉しくて倖せだった。


きっと、「夢の外の僕」も。


師叔は華奢なその手で僕の顔をそっと引き寄せて、
小さくちいさく囁いて――
僕にやわらかいキスをしてくれた。
触れるだけの、甘くてとろけそうな吐息を重ねて。


「――」


突然の耳鳴りが彼の声を打ち消した。


何て、言ったの…?


あなたの言葉を知りたくて、問う。
「師叔…。さっき…何て…?」
心の奥底に、冷たく重苦しい岩かあるかのように上手く話せない。


あなたはまた、頬を染めて倖せそうに微笑むけれど
「――」
「――」
やっぱり聞こえない。


「すみません、よく聞こえない…」
僕は少し不安になる。


声を、息を、鼓動を、
あなたの生きている音を聞きたいのに
「――」
「―――」
耳鳴りはひどくなる一方で、何も聞こえない。


あなたの言葉を、想いをほんのひとかけらでも知りたいのに。
「師…叔…」


あなたはそこに居るというのに、
「――」
「―――」
聞こえない。


手を伸ばせば間違いなく届く距離。
あなたが仕掛けたくちづけ。
少しくせのある髪。
甘く擽るようなあなたの匂い。
「――」


これが夢だと知っているけれども。
醒めないで、
醒めないで、

「―――」

どうか、醒めないで。





息が乱れ、心臓が狂ったように暴れだしている。
冷や汗と、抑えようのない虚無感。
夜着にも着替えず、着の身着のまま眠り込んだようだ。

薄暗い寝室には、僕がただ一人。

あなたは、ここには居ない。
今はじまった事でもない。


目を閉じ、あなたの残像をもう一度瞼に焼き付ける。


「あ」

「あ…」

「スー…」


瞼に焦げ付いたあなたを、間違っても落としてしまわないように。

夢で逢えた嬉しさと、夢でしか逢えない哀しさとが混ざり合って苦しくて。

それなのに、あなたの事がまだこんなにも好きだという奇妙な安堵。

「師叔…、太公望師叔…」

あなたは何を言いたかったの?
伝えたかったの?

僕たちが解り合えたのはあの頃だけですか…?

それとも、そう思うことさえ僕の欺瞞――?



夢に意味を求める自分がどこまでも愚かしく、滑稽に思えた――

「逢いたい…」

思考と疑問が渦を巻いて僕を飲み込み、
溺れても出口なんて見付からなくて――

ただ僕は、泣くしかできなかった。
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