妄想本棚

□春の標(しるべ)
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四季折々を存分に味わい、雲の流れ一つにいちいち目を遣るのが、太公望の日常である。
この季節には何が旨くて、どこで何が採れて、どのように手を加えれば長持ちするだとかを、やたらと知っていた。
晴れの日には作物が育つと喜んで、雨の日には生き物が潤うと笑った。
民の為になる事を、天の恵みを心から尊ぶ。
そんな仙道は、楊ゼンにとっては随分と物珍しく、強く興味を引かれた。
惹かれてしまったのだ。


「こうやって――」
太公望が呟く。
「おぬしと茶を啜る余裕があるのも、今のうちやものう」
蒼い髪を僅かに揺らして楊ゼンが顔を上げる。
「陽の光、風の音、星明り」
少年の声はどこかしら歌うかのような響きを持っていた。
「人間界に下りて、命に溢れた世界の彩りに久し振りに気付いたよ」
楊ゼンと同じ事を、太公望もまた考えていたらしい。
「わし一人では、こうはいかんかった。皆のお陰だ」
少し照れくさそうに話す少年の姿をした彼は、この時ばかりは表情も見た目相応だった。
「いずれ進軍が始まる。そうなったら――」
「そうなったら…?」
小首を傾げて、青年が問う。
「ここや崑崙では見られぬものが、沢山目にできる」
ちぃとばかし慌ただしくなるだろうが…と、語尾をあやふやにしてはいたけれど。
「太陽が焦げ付くように照らしてくるかもしれんし、風が容赦なく吹き荒ぶところもあるだろう」
「見慣れた星空が、がらりと変わるかもしれませんよ」
「それも一興だろう? わしら仙道の知識などほんの一握りの砂程度だ。知らない事はいくらだってあるぞ」
最後の一口を、太公望は飲み干した。
「その知らない世界…を、一つでも多くを見てみたいものだ」
空になった湯飲みを、冷えがちな小さな手のひらで転がす。
「皆と共に見たい、と…思う」
心なしか声が小さくなっている太公望につられて、楊ゼンも少し小さな声で問う。
「――そこには僕も、含まれていますか…?」
「…おぬしがおらねば――困る…のう」
躊躇いを隠せないその太公望の言葉と表情に、今すぐに抱き寄せたいという願望が楊ゼンの中で初めて息づいた。
「僕も――あなたと同じ景色をこの目で見たいです」
気が付いた時には、楊ゼンは呟いていた。
「できれば――ずっと」


「お茶のおかわりをお持ちしましょう」
「うむ」
楊ゼンの申し出に、僅かにぎこちなく太公望が頷く。
なぜ自分が戸惑っているのか、今一つ解らない様子で。
それが楊ゼンには見てとれて、残念なような、けれどほっとしたような、何とも表現しがたい気持ちになった。
楊ゼンに息づいたこの感情を愛というにはまだ早すぎるし満ちていない。
けれど熱を帯びるのはほぼ確実で、それが嫌だとか面倒だとかは微塵も思わない。
無論、相手も同じとは限らないけれど、それでいいと今は思える程度の余裕があった。
そんな余裕はすぐにかき消されるとも知らずに、恋に堕ちた青年は想い人の為に立ち上がり、甘い滴を求めに行った。
春の日の、風を道標に。





〈了〉
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