妄想本棚

□オレンジ
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「ねえ、」
「だから何だ」

当たり障りの無い台詞を探す。
「…少し…休みましょう。寒くはありませんか?」
季節はまだ夏だけれど、地形的な理由からこの辺りは日の暮れる頃からいちどきに冷え込む。
全く――嫌になるほど丁度良い逃げ道を僕は見付ける。
「そうだのう、いつの間にやら随分と…冷えておるようだ」
「あたたかいものを用意しましょう」
席を立って、ぼやくこの人に肩布を羽織らせる。
「…違う」
「でも寒いのでしょう?」
「違う。…違うよ、楊ゼン」
そう言うと師叔は立ち上がりこちらを向いて、一瞬――目の錯覚かと思う程短い時間、表情を歪ませた。
「そうではない――だろう…?」
師叔の僅かな変貌に気を取られている隙に、視界から小さな人は消えた。
代わりに、胸元に知った重さがかかる。
「違う――」
目線を下げると――額を僕の胸に押し付けて、師叔は繰り返し呟いた。
「…何が違うのですか」
「冷えておる」
「ですから今、あたたかいお茶でも…」
「だからそうではない」
師叔の意図するところが見えなかった。
もしかして、珍しくこの人から抱擁を求めているのだろうか。
「――師叔…」
そっと、腕を回してみたがあっさりと払い退けられる。
「違う」
顔を上げずに何度目かの『違う』を師叔が呟く。
師叔が触れる胸元はあたたかいのに、それ以外は少し肌寒くて。
寒がりなこの人は、きっともっと冷えている。

「凍えそうではないか」

小さく――返事を望んでいないと判るその言葉はどこか淋しそうで、それでいてもどかしそうだった。

「…師叔…」
「ダアホが」

溜息まじりの声が胸元に零れた。
その息の向かう先は僕のようでもあり、この人自身のようでもあり――。
何かを求めているのは判る。
でもそれが何か、解らない。
言って貰わないと解らないのに、聞き出す事が躊躇われる。
僕はどうしていいか判らず途方に暮れた。

そしてそのまま、二人身動きをしないままにのろのろと這いつくばるように時間が過ぎた。
それ程長い時間が経った訳でもないのに、沈み行く太陽が朝陽となり昇って来てしまうのではないかとさえ思った。
夕闇の中――、
師叔は動かなくて、僕は動けなかった。


「――…」
「え?」
漸く発せられたそれは息なのか声なのか、判別がつかなくて聞き返す。
「――茶ではなく、酒」
気付かん奴だと笑いながら顔を上げたこの人は、いつも通りの師叔だった。
「…仕事は――宜しいのですか?」
「止めやめ、今日はもう止めだ。これ以上続けても先に進まぬよ。だから――ぬくまるなら酒がいい」
普段と変わらない様子に、僕は安堵と――ほんの僅かではあるが言いようの無い哀しさを覚えた。
「月見酒だ。夕陽がきれいだったから、今宵はいい月になる」
そう言って笑う師叔のやわらかな髪を見て思い出す。
それは――『夕陽がきれい』とは、僕が言いたかった事だった。
光に透かすと赤みが強まる師叔の髪――それをきれいに染め上げそうなあの夕陽を、共に見たかったのだ。
そんなとても簡単な事を、今更思い出していた。


既に陽は沈んで西のオレンジ色は薄れつつあり、東の空は闇が増して三日月が浮かんでいる。
どれだけ手を伸ばしても遠く孤高の月には届かない――。
その筈なのに、今の月は逆に届く事を怖れていそうな――、それでいて孤独感の漂う蒼い月だった。





〈了〉
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