妄想本棚

□ロンリースターズ
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わずかに空間が軋む音に、物思いに耽っていた楊戩は眼を開けた。
それは彼が変化の術を使う時の音にどこかしら似ているようで、けれどもっとずっと小さなノイズだった。
執務室の開け放った窓の一点が滲んだと思った瞬間、その点は山吹色の小さな円になり、次第にその円は平面から立体へと形を変え始めた。
「――!」
目を見張る楊戩の前でそれは音もなく手の形となり、手の形をしたものは革の質感を纏い、少年を思わせる大きさになると手袋であることに気付く。
革でできた山吹色の手袋から白く伸びる腕が生え――否、腕が生えるなどあり得ない――本来は窓を開けただけの何もない空間から、左腕が現れた。
少年とおぼしきその手は、先ほど武吉が用意した蒸し器をまさぐり当てると饅頭を一つ二つと掴み上げては異空間の穴に戻り、やがて三つめを手に戻ろうとした時、楊戩はため息混じりに声をかけた。
「もう一つ、ありますよ?」
ぎくり、という音が楊戩には聞こえた気がした――左腕は傍目にも慌てふためいて見えたが、四つめをしっかりと掴んで姿を隠した。
それに合わせて穴が閉じられ小さな点となる。
無言で楊戩がその様を眺めていると、穴が向こう側からこじ開けられた。
「むぐっ、むっ、むぐぐぐぐ…!」
再び現れじたばたと踠いて暴れる左腕に楊戩はもう一度ため息を溢した。
「そんなに慌てて食べなくてもいいでしょうに…」
椀に茶を注ぎ、あえて冷ましてから渡すと、左腕はひったくるようにそれを受け取る。
「ゆっくり、少しずつですよ。一度に飲んでも流れませんから」
その言葉が届いたのかどうか、しばらくすると、そろそろと椀が卓上に戻された。
まだ温もりの残るその椀に丁寧に茶を注いで、やさしく――あの頃と同じ声で、楊戩は語りかけた。
「温かいお茶を淹れましたから…一緒にいかがですか?」
焦がれてやまない、ただ一人のその人に。


*****


不意に異空間より現れたこの黒衣の人物こそが、武吉が師と慕うその人だった。
窓枠に行儀悪く腰をかけ足をぶらぶらと揺らす仕草は、彼を見た目通りの少年のような印象をより強めている。
幼さを残す丸みを帯びた頬には、食べかけの饅頭の欠片がいくつかと、至福の笑みが満足そうに浮かんでいた。
「ここもいい雰囲気になってきたのう」
「誰かさんが難しい課題を与えて下さったもので、お陰様であれ以来ずっとここに心血注いできましたから」
思想も行動原理も全く異なる崑崙と金鰲の仙道達が、この蓬莱島で共存していく術をずっと模索してきた。
それは枷として楊戩をこの地に留めさせ、同時に彼にとっての存在意義となった。
「半ベソかいて追いかけて来るかと思うとったが」
「あなたが僕にと託したものを、なげやりになんてできませんよ」
皆が幸せに暮らせる世界。
一人ひとりの意見を取り入れ、少しずつ住みよい国にする。
言葉にするのは容易いが、それを実現する術のなんと難しい事か。
「――怒っておらぬのか」
「怒ってますよ」
彼らしくなく髪を乱雑にかき上げる仕種が、青年の並々ならぬ苛立ちを表しているようだった。「自分の居場所など必要無いとおっしゃったあなたが、僕の居場所はきっちりと確保して下さった事にね」
紂王を倒した後、「ここにもう自分達は不要だ」と彼が語っていたのが、楊戩の胸に小さな棘となり引っかかっていた。
それはまるで自分自身を要らないと、突き放すかのような言葉だったから。
「ここに居るべきはあなたこそが相応しいのに」
「わしはおぬしらとは異なるモノだ」
人間でも妖怪でもない存在が、永きに渡り星の行く末をほしいままに操っていた。
それは少年とは全く異なる考えを持った者だったが、少年と同じ種族であり計り知れない力を持っていた。
己が望むか否かに関わらず同じ轍を踏まない保証はないと、少年は言いたいのだろう。
「ええ、解っています。僕は――僕達は、標〈しるべ〉のない道を歩まねばならない」
それこそが封神計画の最終目的であるのだから。
「あなた――…いえ、伏羲…、そして……」
その名を口にするには、いくばくかの覚悟と時間が必要だった。
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