ハニ受け3

□Blue Istanbul
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深い森に、霧が立ち込めている。一歩足を踏み出す。途端に視界が開ける、断崖絶壁。踏みしめる大地を失った身体が傾く。落ちる、その瞬間に誰かに腕を掴まれる。引き上げられて抱き止められる。よく知っているようで、知らない、猫のような瞳の男。







キュ、と蛇口をひねり、ザーッと水の流れる音。


ジョンハンは目を覚ました。ひとりで毛布にくるまっている。昨夜同じベッドで眠りについた恋人は、朝からシャワーを浴びているようだ。

枕元をさぐってスマートフォンを手に取る。AM 07:11の文字が浮かぶロック画面を解除して、約3日ぶりにInstagramを開く。ジョンハンは旅行に行った写真を2、3回載せたくらいで毎日見ているわけでもない。今は身体がだるくて、もうしばらく横になっていたい。寝ぼけた頭で友人たちのストーリーを流し見ることにする。スタバの新作、映画の半券、授業中に居眠りするクラスメイト、飲み会で乾杯するグラス。ぼーっと画面を見ていたジョンハンはある動画にハッとした。恋人の、ソクミンが昨日載せたストーリー。

『昼から』と文字の入った動画には、まず正面に座った、ワイングラスを持った若い男が映る。ソクミンの友人だろう。カメラはそのまま右にぐるっと回り、ソクミンの隣に座るもう1人の男を映す。ジョンハンは指で画面を押さえて停止させる。


この男だ。昨晩、夢でジョンハンを救ったのは。



「なに見てんの?あれ、俺のストーリーじゃん」

画面を覗き込むように顔を寄せたソクミンの前髪からジョンハンの裸の肩にぽたり、と水滴が落ちる。顔だけ振り返ると軽いキスが落ちてきた。

「…ん、これ、インカレの人?」

「いや、高校の友達。あの店に連れて行ったんだ」

「そうなんだ。名前は?大学生なの?」

タオルで髪をざっくり拭いたソクミンは、ジョンハンから携帯を取り上げた。目が合って、今度は晴れた朝には似付かない重たいキスをされる。彼はどろりと熟れた唇から、ヒョンには関係無いことだから、と冷たい言葉を零した。






また、同じ森をあの男と歩いていた。ふたりの間に会話は無い。ただ、深い森を進む。美しい鳥の声が聞こえて後ろを振り返ると、青い花が一面に広がっていた。ニゲラだ。英名は『Love in a mist』

花言葉は、夢の中の恋。






裏口から出勤し、小さな更衣室でネクタイを締めてベストを羽織り、腰にサロンを巻く。キッチンで仕込みをしている店長に挨拶をして手を洗う。アルコール消毒をして、サロンのポケットに折りたたんだトーションを入れる。1年生の時からこの『Blue Istanbul』というレストランでアルバイトを始めてもう5年になる。心理学部を卒業したジョンハンは大学院に進んで勉強を続けている。掛け持ちとして他の仕事も経験してきたが、ここだけはずっと続けていた。いわゆる隠れ家的な洒落た店の雰囲気が好きだったし、給料も良い。店長が作ってくれるまかないも気に入っている。ジョンハンがディナータイムに立つバーカウンターの準備をしていると、ドアが開いて上品なベルが小さく鳴った。


「おはようございます、店長ー!」

「お、ソクミナ!」

店長に出迎えられたソクミンとは、去年このレストランで出会った。彼は半年間ここで働いて留学のために店を辞め、留学を終えて帰国しても戻ってくることはなかった。帰ってきた彼にジョンハンが告白して、付き合うことになったからだ。彼は、恋愛とそれ以外のことをはっきり分ける人だった。

「こんにちは」

2人と観葉植物の死角になっていた所から、もう1人男が現れた。ジョンハンは息を飲んだ。

「こんにちは。あぁ、これがあの絵ね!ありがとう。じゃあ早速飾ってもらえる?」

「はい。こちらこそ、ありがとうございます」

「ジョンハナ」

「はい!」

急に名前を呼ばれて慌てて返事をする。やけに大きな声が出てしまった。

「8番の後ろの壁に、この子が描いた絵を飾りたいんだ。手伝ってもらえる?」

「分かりました」

この店には既に何枚か絵が飾られている。自身も絵を描くことが好きな店長が買い付けた物だ。

「じゃあよろしく。ソクミナ、久しぶりにAプレート食うか?」

「え、いいんですか?やった!」

店長とソクミンは和気藹々とキッチンに入っていった。取り残されたジョンハンはカウンターから出た。並んで立ってみると、細身の男の方が少し背が高い。

「ユンジョンハンです。院1年。ソクミンとも一緒に働いてました」

「シュウミンハオです。ソクミンとは高校のクラスメイトでした。前ここに連れてきてもらった時に、店長さんが俺の絵見て気に入ってくれて」

ミンハオは布にくるまれた絵を抱えていた。8番テーブルに案内しながら話を続ける。

「絵を描くって、美大生なの?」

「そうです。藝大で油絵を専攻しています」

「すごいね。あ、もう額に入れてあるんだね。じゃあ、ここに掛けるだけだ」

ミンハオがテーブルに絵を置いて布をとく。現れたのは、暗い森に咲く青い花。そして、それを見つめるひとりの男。



「…もうひとり、いるでしょう」

ジョンハンは思わずそう口にした。これが夢で見た、あの森なら。

「あの人はどこにいるの。崖で落ちそうになった、おれを助けてくれた人」

「…これは、そのもうひとりの男が見た風景だから。ここには描かれてない。」

あの、美しい鳥の声が聞こえた気がした。ミンハオは、ジョンハンを静かな瞳で見つめた。

「どうして、あなたがそれを知ってるの」


また、あの男と共に森を歩いていた。

青い花の向こうには湖があった。日が沈み、漆黒の夜に空が染まる。男が何かを指差す。いくつもの流れ星が光り、湖に走る。ふたりは手を取り合って、星と共に湖に飛び込んだ。







熱い息を零して、ソクミンがジョンハンの背中を抱く。2人とも脱力して、部屋にけだるい甘さが残る。腕枕をされて、引き締まった身体に抱かれると眠くなってくる。瞼の裏には、湖に満ちた星の煌めき。

「ヒョン、まだ寝ないで」

首にきつく吸い付かれて目を開ける。ふたりきりの時、彼はジョンハンへの愛情表現を惜しまない。

「…最近、同じ夢を毎晩見るんだ」

「夢?どんな」

「おれはいつも同じ人と森を歩いていて、青い花や湖を一緒に見てまわった」

何気なく夢の話を口にすると、ソクミンの顔色が変わった。どうして、いつもそうやっておれに怒るの。大きい手がジョンハンの首を掴む。両側面を圧迫されて酸素が薄くなってゆく。



普段は外を並んで歩くことさえ避ける彼が、跡が残るほど強く自分を抱いてくれる。彼が自分を愛してくれていると確認できるような気がして、ジョンハンは痛みをともなってでもそれを受け入れた。





「こんばんは」

バーカウンターにミンハオが座った。彼はあれからも絵を持って何度か店を訪れていたが、客として来たのは初めて見た。

「…いらっしゃいませ。今日はひとり?」

「そう、普通に飲みに来た。ジントニックお願いします」

ジョンハンはタンブラーに氷を入れ、ジンの瓶を取る。ミンハオが頬杖をついた細い指に、重ねてつけられたシルバーリングが鈍く光った。



「あの絵の、青い花。ニゲラでしょう」

「知らない。俺は夢で見た花を描いただけだから」

「ブルーイスタンブール。この店の名前、そのニゲラっていう花の種類からつけたんだって」

ジョンハンがカウンターに写真を載せる。ミンハオはそれを手に取った。

「そう。あれから、夢の続き見た?」

「うん。流れ星がいくつも湖に落ちて」

「2人でその湖に飛び込んだ」

やはりふたりは、同じ夢を見ている。こうして出会う前から夢の中でずっと、一緒に過ごしている。



「ねえ、襟からガーゼ見えてるよ」

ミンハオの言葉に昨夜のことがフラッシュバックして、ジョンハンは首に手をあてる。彼が薄く笑った。

「今日早上がりなんでしょう。一緒に帰ろう」





ジャケットを羽織って裏口に出ると、ミンハオがしゃがんで猫を撫でていた。ジョンハンに気づいた彼は、じゃあね、とその猫に声をかけた。



「ヒョンの腕時計、有名な歌手とブランドがコラボした限定のやつでしょ」

夜道を2人で並んで歩く。ミンハオがジョンハンの手をそっと取って、手首の腕時計を見る。

「そう、よく知ってるね。この人好きなの?」

「うん。あと、友達が同じ時計付けてるの見た」


暗闇で光るミンハオの目は猫のようだった。全て見透かされていると、何故か分かった。


「…お揃いだからね。あいつは知らないけど」

「どういうこと?」

「誕生日におれがあいつに、ソクミンにあげたの。あいつはペアのアクセサリーとか嫌いだけど、おれはどうしても何か同じ物が欲しくて。勝手に、隠れて、同じの持ってるの」

堰を切ったように、言葉が口から溢れた。ソクミンと付き合っていることも、この腕時計のことも誰にも言ったことがなかったのに。

いつもそうだった。いつも年下の男に恋をして、周りが見えなくなって、相手に合わせて自分を変えて、尽くして、最後は重いと言われて振られる。この時計のことを知ったら、ソクミンはきっと気味悪がって自分と別れるだろう。頭では分かっていても、高校生のようなベタな恋愛に憧れて、いつまでも馬鹿な真似を繰り返している。

「お揃いの物があったら、あんたは安心するわけ?結婚指輪してても不倫する男なんか腐る程いるだろ」

「…その場凌ぎでも何でもいいから、おれのことが好きだっていう証明が欲しいの。もし気持ちがなくなっても、物は残るから。見れば、色々思い出せるでしょう」

公園の角を曲がるとジョンハンのアパートの前に出た。

「首、あいつにやられたの?」

ジョンハンは黙って立ち止まると、ワイシャツのボタンを外した。露わになった首に貼られたガーゼを剥がす。ミンハオが目を逸らした。

「痣、いつもより濃く残っちゃった。でも見た目ほど痛くないよ」

沈黙が気まずくて、じゃあ、ここでとジョンハンが言うと、ミンハオが鬱血痕の残る首をそっと撫でた。

「お大事に。おやすみなさい」

彼が角を曲がって見えなくなるまで、ジョンハンはその後ろ姿を見つめた。
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