短編集

□わたしはだれ?
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少年は走る。誰もいない、霞みしかない通学路を横切り、学校へ向かう。
浅い眠りは少年に余裕を与えなかった。いつもなら十分に間に合う時間。しかし、今日は例外である。
「このままサボろうかな。修学旅行なんて面倒くさいだけだし」
少年は年齢相応、小学六年生では平均的な体力しか持たない。少年はときどき歩きながら進む。
 少年は口で願望を言うが、実行する気はない。旅行と言っても授業の一環であり、実行すれば欠席になる。後々、親や先生に小言を言われるのは少年にとって避けたいことだ。
 少年は後ろめたい過去を持つわけではない。何もなかった、良いことも悪いことも。だから、少年は周りと同じように将来に希望を持たず、周りと同じように公務員が夢と言っておく。それで大人が満足するから。
 少年はうつむいて、ため息をする。億劫な気持ちを隅に置き、歩をまた速める。
 少年の大きく進むはずの体に強い衝撃を受ける。
「なんだよ、もう、誰もいないはずなのに」
 少年が顔を上げると坊主がいる。坊主の顔色は薄く、あまり生気を感じない。少年は坊主を顔から順に目線を下へ動かす。
目線の終着点にはあるはずの足はない。
「え? 浮いて……」
「君は私が」
 少年の頭から思考が消える。少年は立ち上がり、坊主を背にして走り去る。


 少年はここ三分の記憶がなく、この後、三分の記憶は頭に入りそうにない。
 修学旅行に行く生徒、先生は校庭に集まっている。
「平野君いる?」
 担任の先生の確認に手を上げることで返事する。息が荒く少年の声は出ない。少年の体も畳んでいて、顔も見えない。先生は周りを見渡して少年を探す。
「先生、健一はここにいるよ」
「ありがとう。平野君、大丈夫? 大分息が荒いよ」
 少年、健一はオーケイサインで応える。先生は健一が遅刻ではないにしろ、集合時間ギリギリで来たことに気づいているが、不問としている。
 集合場所は校庭。しばらく待っている間はクラスの境はなく、生徒が好き勝手にしゃべっていた。それを止める理由はないので先生たちは何も言っていない。そのおかげで三分ほどの遅れはないことになる。
 息が整ったので、健一は助けてくれたクラスメイトにお礼を言う。
 しおりに書いてある説明や、役割がよくわからない校長の話が始まる。健一はその話を聞き流す。健一に限ったことではなく、ここにいる生徒は話を聞いているフリをしている。
 ようやく出発のあいさつが終わり、クラスごとにバスへ乗車する。
 重い荷物から解放され、健一は長いため息をはき、自らの置かれた状況を整理してみる。何度も考えるが、結果は、自分がマンガの読み過ぎで幻覚を見た、だ。
「だったら、女の子がよかったな」
 健一は本格的な思春期に入ってないが、異性に歓心を持ち始めている。健一は自らの欲望に準じて、正直な気持ちを小声でつぶやく。
 修学旅行で使われるバスは四列席になっている。基本的にはグループ行動のメンバーが二人ずつ隣り合って座るが、奇数人数で構成されるクラスのため、隣がいない席が出来る。その席が健一の席だ。
 損な役回りが多い健一だが、今回は幸いとした。健一の席は先生たちがひとつ前、クラスメイトはみな後ろにいる位置のため見えづらい。
「わっ、何でいるの?」
 窓際に座る健一の隣に坊主が座っていた。
 驚きに動かされ、健一の体は飛び跳ねる。どこかに健一の頭がぶつかることはなかったが、不自然な座り方になる。
 健一は片足を席に乗せ、左腕は窓を、右手は坊主を押し出す。
 その右手は空を切る。
「えっ? 触れない?」
「私はこの世の者ではありません、現世の人に見えることもないのですが」
坊主は喋り出す。坊主の年は健一の父親ほどで、健一に対して敬語を使う必要はない。少なくても健一の知る大人たちは子供に対して敬語を使わない。
「あなたにお聞きしたいことがあります」
「ハイ、なんでしょうか?」
 健一は周りを気にして小声で返答する。目の前の坊主が自分に見えるから、他の人も見えるとは限らない。他の人から見れば、健一は意味をなさない独り言をつぶやいているに過ぎないのだ。
「この箱は?」
「箱って? バスのこと?」
 健一は坊主が『箱』と示すものがよくわからないが、上を向いたことから乗っているもの、そのものを表していると思った。
「この箱が人の手も借りず動くことを知っていましたが、名は初めて知りました」
「おじさんはいつから、その、お化けになったの?」
 健一は普段は気にして、大人が思う、年相応の言い方をしている。思考回路が止まっているため、今の健一の言い方は幼くなってしまった。
「いつからでしょうか、仏僧としては恥ずかしながら数百もの季節が過ぎているにもかかわらず未だに成仏出来ていません」
「数百……」
 健一は坊主の状態をどう表すか思いつかず、お化け、と言った。そのことに疑問なく坊主は応答する。
 健一の過ごした年月は十二年程度。健一には三百年は果てなく長い時間である。年をどれだけ重ねても同じかもしれないが。
「すみません、まだいいですか?」
「はい、何でしょうか」
 坊主は健一の顔をうかがいながら話を続ける。
「私は誰ですか?」
バスはこの世にあらざるものを乗せ、京都へ向かう。
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