「お前さんいくつだっけ」

 切り出す話題は何でも良かった。しんと静まり返った沈黙の間がいい加減嫌になって、それでつい口から出ただけだ。誓って、和やかな会話を望んでいたわけじゃあないのだ。当然、向こうからリアクションが返されるとは思っちゃあいなかった。無視されてもそれはそれで一向に構わなかった。場の空気を読むということは、人として、『大人として』、社会人としてのマナーだろう。こちらからコミュニケーションを試みたこと、それ自体が大事なのだ。その義務は今こうして果たした……あとはもう無視してくれていいから、とさえ思っていた。というのに。

 「じゅうなな」

 こちらの予想に反して承太郎は音を響かせたのだ、飾りっ気のない実にシンプルな数字を。ぽつりとぶっきらぼうながら素直に返されてしまったそれが先ほどの返答なのだとしたら、つまり彼の年齢だ。じゅうなな。十七か。その二つの数を自分でも噛み締めてみる。自分が十七の時、何をしていたかと昔へ思いを馳せかけて、いやいやと頭を振った。お前の立ち振る舞いとか肝っ玉とかふてぶてしさってのは十七歳で身に付く貫録じゃあねえだろう、と思うし、第一、日本人で十七歳で『それ』ってまずいんじゃあないか、とも思う。彼の素行に対して、これも『大人として』の小言というものが一瞬頭に過った。が、過っただけに終わった。隣の、とうてい子供には見えないが一応の小僧が一丁前に悪ぶって母国の規律に逆らっていようがいまいが、そんなことは自分に関係ない。どうぞご勝手に肺を汚すといい。問題はそこじゃあない。

 吸っていた奴が一旦やめて、暫くは吸わないでいたのが、ある時突然、再び吸い始めた。とは、よく聞く話。これまでの経験上そういった場合、大概が衝動的に吸ってしまうのだ。それまでの努力が水の泡となっても、どうしても吸わずにはいられない……腹が立って、むかついて、むしゃくしゃしてどうにもならなくなって、それで、しまい込んでいた箱へつい手が伸びる……だから。

 これは何かがあったんだろうなァ……と考えるべきところかね。

 窓枠に肘を置き、カイロの夜風に当たりつつ、ホル・ホースは紫煙をくゆらせる。

 この館に喫煙所だなんて上等なものはない。だが特別禁煙というわけでもない。積極的には嗜まないだけで主も時々ニコチンを摂取している。意外ともいえる場面にホル・ホースは何度か出くわしていた。ただ単に『この時代』の味を確かめている、あくまでもどんなものか試しているだけといった感じで、美味そうな顔など見せやしない。だが、有毒の煙が赤い唇からふうと流れる光景は気だるげで、しかしこの上なく優雅で、単なる一部下である自分から見ても美しいという感想を抱かされた。そう、館の主がパイプや葉巻を吹かすのだ、さほど気を遣うことなく好きに吸っていいという雰囲気が、ここにはあった。でも何となくなのだが、ホル・ホースは煙草を咥える際いつも窓の一つを開放して、吐き出した煙を逃がしている。ただでさえ陰気な館の空気を澱ませたくないと、心のどこかで思っているのかもしれない。

 夜気に混じりやがて薄れ消え行く靄、今夜はそれが二人分というわけだ。

 「ふ」

 男にしてはぽってりとして厚みのある唇からゆっくりと生まれてくる煙……主とはまた異なる、男の色香。承太郎の吸いっぷりは完全に吸い慣れた者のそれ、しっかりサマになっていて、やはり未成年には見えそうにない。

 「禁煙、やめたのかい」

 視界の中の、端っこで承太郎の黒いコートが揺れた。つ、と緑色の流し目が送られているのだろう。潜った修羅場の数は並みではない、自分に向けられる『目』には敏感だった。承太郎の視線を、肌で感じている。けれど気付かぬ振りをしてホル・ホースは煙の行く末だけをぼおっと眺めている。承太郎がここで過ごすようになって確かもう二月は過ぎただろう。ここにきて最初の壁ってやつにぶつかったのだろう……そんなことを思いながら。



 最近、館は平和だった。理由は一つしかない。主の機嫌が絶好調だからだ。些細なことで褒められたし、急に羽振りが良くなって臨時の報酬すら渡された。上を知らぬというほどひたすらに上機嫌だった。擦れ違うと向こうから話しかけられた。調子はどうだ、悩みはないか、欲しいものがあったら言えよ、手に入れるまでの手助けをしてやるぞ……寛大な心さまさまだ、部下としては感謝感激の溜息が出る。

 自身の望みが叶ったがゆえの、大盤振る舞い。

 ホル・ホースは、吸血鬼らしからぬ浮かれた足取りを見送りながら思ったものだ……そりゃああんたは嬉しかろうぜ。主は、運命に勝利した。あの空条承太郎に勝ったのだ。今やまさしく勝者なのだから毎日が楽しいという状態になるのも頷ける。勝者が正義、大いに結構、ナンバーワンならば何をしても許されるというゲスな主義主張も、ホル・ホースは肩を竦めて支持する。暴君万歳。一度屈したなら恐ろしい背中にもついていくしかないのだ。だから主が、支配者然とした傲慢さで下した星を弄ぶのだって分かる……部屋の外へ、自由を求めて逃げを打つ体を容易く捕まえて、ベッドの上まで引き戻すのも、理解できる……いや、どうだろう。あの日の出来事は今思い出してもちょっと信じ難い。

 突然音を立てて開いた扉。主の寝床の前をたまたま行き来していた者達が皆して固まった。だが衝撃はそれだけで終わらない。開け放たれた扉に次いでよろけながらも己が足で歩き出てきた姿を見て、身動きどころか息まで止まった。数瞬の間を空けてそれぞれの呼吸が再開した時、承太郎、と呆けた声で呟いたのは執事のテレンスだったか、ゴロツキのスティーリー・ダンだったか……それとも自分だったろうか。

 憎きジョースター一行、主が打倒してくれたスタンド使い達、中でも中核であった男。主、DIOの、近頃のお気に入り。

 その遊びから、承太郎が逃れようとしているのは誰の目にも明らかだった。逃げ出したがる承太郎の気持ちは痛いほど伝わってきた。DIOは女好きだが、男もイケる。扉開く直前まで部屋の中で行われていたことはいやらしい戯れだ。子供には刺激が強過ぎる遊び。夜毎ベッドで繰り広げられている性交は甘いものではない。相手を容赦なく追い詰めて許しを乞わせ、屈服させる。翌日発見される犠牲者の有様は、自分のような悪党でも後退したくなる凄惨さだった。しかし、そうやって女をとっかえひっかえしていたDIOの瞳、その妖しの光は現在もっぱら一人に注がれている。閨を共にするのに二夜目はない……それがDIOのスタンスだったのに、承太郎は規格外だった。熱を伴う夜は三度四度と続いて、人間ではない男の底なしの精に付き合わされて、だが折れず屈さず、承太郎は戦い続けていると聞いていた。

 その時だって、嫌、とも、助けて、とも言わなかった。周囲に救いを求めて縋ったりしなかった……けれど押し殺せなかった感情もあったのだと思う。それは承太郎の腕に、手に、指に、微かに現れていた。承太郎は空中に手を伸ばしていた。そこに何があるわけでもないのに。懸命に何かを、自由を掴もうと足掻き戦慄く指……に、そっと白い色がからみついた。透き通るような白さが少しずつ承太郎の手を覆っていく……DIOは自らの指で捕えた承太郎の手を引き寄せる。人間の承太郎には逆らいようのない強引な力なのは明らかだった。だけどそれを『乱暴に』とは表現できなかった。DIOは、承太郎の手を握っていた……それはもう大事そうに。縛るためじゃあなく、繋がるために。手に手を重ねるように。承太郎の腰を支えながらそうするものだから、まるでワルツを踊っているように見えた。感嘆の吐息を漏らしたのはDIOのフリークであるマライアだったか承太郎のファンであるミドラーだったか。

 この時も黒いコートはひらりと舞い、薄暗い中でもよく映えていた。承太郎の、意外と幼さが残っているしかめっ面をDIOが覗き込んだ。黄金色の髪と同じように煌めく瞳は楽しくて仕方ないと言っていた。それだって虐げることに酔っている者の歪んだ眼でもなかった……あえてたとえるのなら、初めての彼女と過ごす夜の自分はこんな風だったかもしれない。浮かれて、心臓がそれこそダンスを始めるんだ……だってそうだろう、愛した女との一夜は濃厚で、満たされる期待に昂ぶるものだ。酒よりハイになれて煙草よりクセになり、あるいは、『血』への欲求よりも勝る……その喜びや期待は、求める側の哀れな独り善がりだろうか?

 DIOの唇が承太郎の横顔を掠める。一言二言、囁かれていく短い言語は英語じゃあなく、語調は穏やかで丸みがあった。おそらくは承太郎の母国語だ、とホル・ホースは直感した。なぜなら承太郎がDIOの声に耳を傾けてちゃんと応えていたからだった。口での返事こそないけれど睫毛を伏せた。服従の証か、いいや否だ。仕方ねえ分かった折れてやるぜ……そんな苦笑が聞こえた気がする。DIOの腕の中、自分からもぞもぞと体全体で振り向き、DIOと向かい合った時の、承太郎の顔……諦観の表情というには、口元の微笑が優し過ぎた。



 DIOの機嫌が良かったのは因縁の相手を下せてご満悦だったから、と最初は思っていた。実際はどうも違うらしいと気付いたのがその日だった。DIOの心の動きには承太郎が関係している。ならば承太郎のこの不機嫌の原因も多分……。

 「DIO様となんかあったのか」

 はっきりとした言葉にすれば承太郎の眼差しはますます強くなっていく。安い挑発だと分かっているはずなのに受け流せないところがまたホル・ホースの確信を固めていく。

 「禁煙していた野郎がまたやり出すってのは、そういうことだろ」

 特に、承太郎のように意思の強そうなやつならなおさらだ。何かがあったのだと考える方が普通だ。

 「さっきから変なこと言っているんじゃあねえぜ。禁煙なんざしたつもりはねえ」
 「へそまがりのガキだな……おめーがDIO様とやり合おうがヤり合おうがおれにはどうでもいいんだけどよ、自分の立場を分かっちゃあいねえな」
 「立場だと? 大人しく捕虜でいる気だってないぜ、おれはあの野郎を」
 「そうじゃあなくてだな」

 ぷ、と煙草を吐き出すと同時ホル・ホースは動く。承太郎へ向かって手を伸ばす。自身よりも大柄な体だがコツさえ掴んでいれば何とかなる。もちろんDIOのように易々とはいかないが、自分には数多の経験がある、とスケコマシらしいスマートな流れで獲物を壁へと押し付けた。承太郎はうろたえやしないけれど多少、動揺している。カウボーイハットの下から見上げてやると鈍く重い眼光で睨み返してくるが瞳孔の中に揺れが見える。見逃すわけもなく。ホル・ホースは自らのスタンドを片手に呼び出す。承太郎の数少ない露出部分、首筋に、エンペラーの口で触れる。張りのある若い肌へ当たる銃口、こつこつ、と軽いキス。承太郎が緊張するのも無理はない、これがディープに変わればお陀仏だ……引き金にかかっている指は承太郎にも見えているはず。人質の件を抱えている承太郎は迂闊にスタンドを使えない。自衛のためであってもぎりぎりまで使わないだろう。

 「暢気に館を歩き回ってよ……おれみたいなロクデナシにこうされる可能性を少ッしも考えねえのか?」
 「じゃれるなホル・ホース……笑えねえ遊びだ。どけ」
 「強がりだな……腰が引けてるってのボーヤ」

 脚を膝頭で割りつつ、できる限りいやらしい面をつくってせせら笑った時、ふと匂いが香った。香水だ。きつ過ぎない、いい匂い。一級品らしく鼻を通り抜けたあとも不快感はないがこういった香りを承太郎が付けるとは思えない。くん、と嗅覚を頼り辿ればこの香りの出所は予想に違わず首元。DIOの情愛が通ったところ。しかと見つめて、それからホル・ホースは口角を上げた。ほらな、とあらためて笑う。

 ほらな承太郎よ、あんた大分、大切にされているようだぜ。

 スタンドを消して両手を上げる。もうこれ以上ちょっかいかけません、のアピールは受け取っていただけたらしい。背後の殺気は一瞬で霧散していた……それでもDIOの手に背筋を撫でられてホル・ホースは冷や汗を流す。やり過ぎたかなあと全身から後悔が吹き出してくる気分だ。以前にも感じたがこの男が後ろに立っていると本当に生きた心地がしない。

 「迷子の保護ご苦労ホル・ホース」
 「いやあまァ愛煙家のよしみってやつですよハハ」

 乾いた愛想笑いに合わせて、ぎこちないカニ歩きで承太郎の前から退く。と、空いた場所にするりと入り込んだDIOは、身を捩ろうとする承太郎を再び壁へと押し付ける。承太郎が怒気を放つ。誰が迷子だと言いたげの剣呑な目つきにDIOは俯きがちだった頭を上げていく。暗がりにあった顔に月灯りが射して浮かび上がるは……絶世の美形にふさわしくない、膨れ顔。あの帝王が頬を膨らませているだなんて。そのあまりの仏頂面に今度は承太郎がたじろいだ。

 「承太郎」
 「そんな顔して我儘を通すわけか? ダメだね。おれは納得してねえからな。偶にはてめぇが譲歩ってもんを」
 「承太郎。折れてやる。このDIOが妥協してやる。だからもう勝手にうろつくな。いいな」
 「おい折れているつもりかそれで」
 「とりあえず部屋に戻るぞ。来い」

 詰まることなく続く応酬に中てられてはたまらない、とっとと退散だ。それが『大人として』の処世術だ……だけど自分は大人である前にDIOの部下なわけで……だったら最後までご主人様のバックアップをすべきだろう。

 「よお承太郎分かったか」

 『これ』が今の立場だよ、お前の。

 呼びかけてやれば、承太郎はぱちぱちとまばたいてから目を見開き、そして帽子のつばを下げた。どうしたいきなり血色をよくして、とDIOは首を傾げている。DIOに見咎められる前にホル・ホースは立てていた小指をズボンのポケットに突っ込んでその場を離れた。



 「おやホル・ホース、顔色が優れませんね」
 「犬も食わないもんを齧っちまったんだよ」



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