昔から、癖のようなもの、というか。原因を探せば、母がよく動物の本や映画を見せてくれたからか、はたまた赤ん坊の頃から祖父がひげをたくわえていたからなのか。あいにく心理学者じゃあない、自己分析しても答えは出ないがとにかく、あまり人に知られたくない性癖であることは確かだ。毛をたっぷり持っている生き物を見ると無性に触れたくなるだなんて。道端で出会う野良猫を陽が暮れるまで撫でていたこと、親戚宅の強面な番犬を無邪気に撫でながら寝てしまったこと。ひとつひとつを懐かしい思い出として、母はいまだ語ってくれる。

 「あの子ったらね、大好きだよって言いながら優しく優しく撫でるものだから、野良ネコちゃんもあの恐い顔したポチもみーんな大人しくなっちゃってね」
 「こーんなグレてしまったがのう。将来は獣医か調教師かと思ったもんじゃ」

 微笑ましいと称されるその笑い話は過去だけじゃあない、性格や図体がふてぶてしく育った現在でも健在だった……笑えない。

 「煙草を吸うのは口が寂しがり屋だからですよ」

 たゆたう紫煙を手で軽く払い、友人は小言を言った。その場では赤ん坊でもあるまいしと一蹴したけれど、妙に納得してしまったのを覚えている。それじゃあこの手も、そうなのだろうか。寂しがりだからこんな風に惹かれるのだろうか……旅の合間、仲間のボストンテリアを怒らせない程度に撫でて、そんなことを考えたりもした。



 そういう性質だから、横たわる体躯を眺めている今も、つい手が伸びる。人の目がない分、思う通りに行動できるというやつだ。この館で、ましてやこの部屋において、嗤う輩はいない。見咎める者も皆無。誰に気兼ねする必要はなく、『つい』に任せて、撫でている。広過ぎるベッドの上、背もたれにしているのは獣の体。『彼』に寄り掛かり、『彼』の頭から背中にまで続くふわふわの美しい毛並みへと、承太郎は手を這わす。口から零れるのはもう何度抱いたか分からない感嘆だった。

 「やわらかい」

 低い声、でも丸みを帯びた、どこか穏やかな独り言に、大人しくしていた獣がぴくりと耳を震わせる。ぴんと立ったそれが次にはそのまま周囲の音を探ろうと動き出す。ただし目は閉じたままだった。きっと眠いのだろう。さっきまでも寝ていた気がするけれど、数時間程度ではまったく寝足りないに違いない。時刻は夜に差し掛かろうとしていて、普段なら活動し出す頃だが、体を起こす気配はない。『こう』なってからというもの、『元』と比べれば変わったことは数多くあって、いっそあり過ぎて、どこがどう変わったのか数えるのも面倒なほどだが、睡眠時間は明らかに伸びている、これは確定的だ。よく欠伸をするし、気付くと今のように体を丸めている。慣れぬ器官を使い、慣れぬ感覚の中で、慣れぬ毎日を過ごす……そんな環境では体力の消耗もさぞ激しいだろう。そこを思えば、日がな一日睡眠を貪っていようと腹は立たない。それに、

 「おいおい」

 承太郎は喉で笑って、くすぐったがった。手のひらで感じるわずかな圧迫感、ふわふわの柔らかさが押し付けられている。もっとだ、と、ねだり甘えるように、獣の体が身動ぎしたのだ。素直な態度に、たまらず心臓が高鳴る。そう、それに、まどろみの中にいるものは、なんだって微笑ましく映る。なんであっても、そこに差はない。眠たいモードに入っているものならなんでもかわいい……人でも動物でも吸血鬼でも……吸血鬼が獣の姿に変わってしまってさえも。ここでも『つい』が出る。ついつい甘くなるのも仕方ない、などと言い訳をつくって、おねだりに応え、承太郎は長毛を撫で続けた。獣は……獣の体を持つDIOは、満足そうにその身を震わせる。



 スタンドとは超能力だ。スタンドに対して『あり得ない』と思うことほど愚かな行為はないだろう、どんな奇跡も怪異も起こり得るのがスタンドなのだから。とはいえ、いざ『それ』を前にした時。人の年齢を若返らせるスタンド能力があるのなら人の性質そのものを変えてしまう強力なスタンドも存在したっておかしくない、という、したり顔はできなかった。その時の承太郎はとうてい冷静でいられなかったのだ。

 最初の遭遇、自分を見下ろす巨大な獣。その影に包まれた承太郎は、死ぬ、と思った。取って食われる覚悟を瞬時に決めねばならなかった。ここで不思議だったのは、承太郎がこの時危惧したのはあくまでも『死』であって、自然界に存在し得ない未知の猛獣を見て驚いたわけではない、ということだ。この獣が何なのか……誰なのか、そんな問題はすぐに分かっていたから、汗が流れていた。先祖代々からの宿敵が大きく口を開き、ずらりと並んだ鋭い牙を見せている……殺されないわけがないと思った。己の足元に倒れ伏した敗者を連れ帰り部屋を与え食事を与え中々退屈しない日々を与えていたという今までが奇妙だっただけで、これがあるべき互いの関係なのだ。食うか食われるか。勝つか負けるか。生か死か。この男もいよいよ決断したに違いない、因縁を終わらせよう、と。だから、承太郎は息を呑んだのだった。

 「DIO」

 腹底から唸り上げる獣を、脳裏に浮かぶ絶世の美男子と結びつけ、名で呼ぶ承太郎は、誰に説明されるよりも前に分かっている。この、自分の顔へ鼻先を近付ける獣の正体を。

 「あなた、ソレがどなたか知って?」

 主の俊足に遅れてやって来た、呼吸を乱すテレンスに驚愕混じりに問われてようやく事態の異常さに気付いたぐらい、DIOにしか見えなかった。

 「あ、DIO?」

 DIO、てめぇその格好はいったいどうしたんだ、と手を近付けた。

 「ぐう」

 一鳴きして、DIOは頭を垂れた。首筋に濡れた鼻先が当たって、承太郎は安堵を感じた。自分のではない、DIOの安堵だ。首に噛みつけば簡単に命を奪えるというのに……ただゆっくりと深く呼吸するDIOの、ほっとした息遣いを肌に受けて、承太郎は腕を回す。広い背中だから回し切れなかったけれどそれでも、ぎゅう、と力を込めた。百年以上生きている、脚を吹き飛ばしても頭を強打しても再生する、血を糧とする、太陽を忌避する、棺桶で眠る、笑うとえくぼより牙が目立つ……DIOが人外であった証は挙げれば切りがない。

 「てめぇの脅威と驚異はこれまで散々見てきた。ちょいと格好が変わっただけじゃあ今さら逃げ惑ったりしねぇぜ」

 承太郎はさらさらと背を擦り、DIOはぴすぴすと鼻を鳴らした。



 毛繕いは獣の本能なのかDIOは日課のごとく欠かさずに行っている。承太郎も気が向けば今のように手指やブラシで梳いてやっているので今日も毛艶はいい。触り心地も抜群に好い。表面は滑らか。より中へと差し込めばふわふわとした感触はもちろん、高めの体温に迎えられる。ぬくい。すばらしいぬくぬく具合だ。学ランが毛だらけになることを差し引いても、離れ難い好さだ。一旦始めたら、しばらくの間、手のひらは撫でるのを止めなくなる。我ながらしつこいと思うのだが、DIOだって元々不快感を我慢するタイプではない、それなのにこの場から移動しない。ということは、こうして撫でられるのも嫌ではないから、気持ちがいいからだ。おまけに撫でられながら眠るのも気に入っていることはここ数日で実証済みだった……そのわりに今日はまだ寝付いていないけれど。もしかすると自分を気にして起きていようとしているのだろうか。そんな考えに至って、承太郎は天井を見上げた。DIOが獣となってから一週間あまり経つ。確かに、共にいる時間、互いの起きている時間が重ならなくなっている。物足りないだとか、張り合いがないだとか、ほんのちょっぴり、少しだけ、寂しいだとか。そう思う気持ちは、ないこともない。

 自分から部屋を訪ねなければ会うこともなくなってしまった。DIOはすっかりと引き篭もりだ。自室から出ようとしない。一日の大半をこんな風に眠って過ごしている。稀に見る自信家なこの男に限ってこそこそと逃げ隠れすることはないと思うのだが、なにを考えているのかは承太郎にも見えない。

 でかい、という形容詞では追いつかない、それほど巨大な獣。縦長の三角耳、伸びた鼻先、大きな口。背中のたてがみと胸を飾る長毛は色濃い黄金色。他を覆う短毛は淡い金色。尾は感情豊かに揺れて。全体的な姿形は狼に似ている。しかし決して狼ではないだろう。前足はない。人と同じ筋肉の付き方をした雄々しい腕があり、腕の先には手、五指もある……肉球付きだが。二足歩行可能の脚があり、瞳には知性が宿っている。発するのはまさしく獣の声のみだけれど、意思の疎通もできる。石仮面を被った代償としての牙も損なわれていない。口を開ければ、獲物の滴る血を味わうのに適した赤い舌と発達した凶器の連なりが現れる。人と獣と吸血鬼、どの要素も併せ持つ、神話上の太古の神のように美しく調和した姿。誰もが憧れや欲を抱くけれど抱くだけに留まって実際は誰も触れたがらない……たとえ忠臣であろうと触れるのを躊躇う豪奢な神獣。

 承太郎は、そうは思わなかった。これはDIOだ。この高飛車な面を見ろ。偉そうに寝そべる格好を見てみろ。こいつは単なるDIOだ。毛並みに逆らわないように、爪が引っ掛からないように、丁寧に梳いて、呟く。

 「狂犬みたいに噛みついたりなんざしねぇのにな」

 返ってくる言葉はないが、音がある。かちんと鳴った牙が、さてどうかな、と言っている……そう解釈した承太郎は首を傾げる。

 「なんだ。不用心に触るやつがいたら噛むのか?」

 ゆらりと持ち上がった尻尾が二回、シーツを叩く。意味は……YES? 思わず離しかけた手に、またも動く尻尾。ぽふぽふぽふ、三回。それは抗議のつもりなのか? 手を離すな、という……承太郎は体の向きを変えて、DIOの上へ、覆い被さるように乗り上げた。背中側と違い、そこは短毛である腹にちょこんと顎を乗せる。DIOは目蓋すら持ち上げないけれど嫌がりもせず、承太郎の体重を受け止めている。

 「おれはいいのか」

 今度は返事がなかった。



 「くあ」

 何かと思えば欠伸の音。

 「寝てな」

 いつの間にか、時刻は深夜を回っている。承太郎もさすがに眠気を感じて、口の動きだけで囁いた。普通には聞こえない声を、かの聴力は拾う。ここにきてやっと片方の目を開け、こちらを見つめてくる。『こうなる』前と変わっていない、傲岸不遜なる光をたずさえた瞳へもう一度寝ろと伝えつつ、承太郎は微笑む。傍にいるから、おれも寝るから、と腕全体を使って大きな体の広い背を撫でる。

 分かった、眠る、そのままだ、そのまま撫で続けていろ。

 ねだるどころか居丈高に命じるように、なおも擦り寄せられる体。やれやれ王様気取りは治らないかと呆れてみせるのは、いわばポーズ、形だけ。承太郎は望まれた通りにDIOを抱き締める。横腹に顔をくっ付けてみる。頬擦りするとDIOの腹の音が聞こえた。DIOが息をする度、その腹ごと承太郎の体も動いている。同じリズムで息を吸い、吐く。息だけじゃあない、脈が、心音が、一つになっていく。それが何だか嬉しくて……笑みが零れて止まらない。あたたかかった。やわらかかった。変わってしまったことは多々ある。変わらないでいるものも、ある。

 「てめぇの匂いがする」

 どれほど純度の高い金貨よりも眩い毛並みに埋もれながら目を瞑って伝えれば、DIOはひときわ大きく鼻呼吸をした。それが今の状態でいう溜息らしい。おかげで、風圧に学帽が飛ばされてしまう。承太郎の露わになった額へDIOが鼻先をくっ付けた。ぴとりと触れるそれ……言語がなくたって通じる。今のがキスだってことぐらいは。それと、DIOがどうやら怒っているらしい、ことも。どうしたのだろう。承太郎は顔を上げてDIOの瞳を覗き込む。瞳孔が少し開いている、と思った瞬間、ひっくり返っている。跳ね退けられてベッドに沈む背中、さらに視界は変わった。体が反転して、承太郎はうつ伏せになっていた。無意識にシーツを掴んだ両手に上から圧がかかる。DIOの肉球が承太郎の動きを押さえ込んでいる。これほどあからさまな体勢を強制的に取らされれば察せざるを得ない。不自由な体を押して肩越しに振り向けば、DIOの非難めいた眼差しがこう言っていた。

 無駄に煽るな。

 「煽ったつもりはなかったんだが、な」

 本当だ。けしかける意図など露ほどもなかった。撫でたかった、それだけだ。子供の頃のように、いとおしいものをいとおしげに、いとおしいと伝えたくて撫でていただけ。その結果がこれとは。おれの悪癖も手に負えねぇ、と、自嘲を堪えて承太郎は少しずつ腰を上げていく……煽る気満々に。ぐ、と手の甲にかかる重みはDIOの動揺か。

 いいのか、と確かめるように名前を呼ばれた気がして、

 「あぁ」

 自ら擦り付ける。

 「待て、をかけたところでそいつを聞けるてめぇじゃあねえくせに」

 手慣れた女もかくや、挑発めいた物言いをしたけれど、積極的に誘うというよりは、おずおずと、寄り添うように、背後の男が持て余している熱と触れ合う。泣きを見てもやめてくれと懇願してももうとまらないぞという台詞に代わって本格的に圧しかかってくるDIO。尻の合間へ当たるその硬さと質量に、服越しであっても承太郎の肌はぞくりと粟立った。

 「我慢は似合わねえぜ」

 首筋に刻まれた星を舐め呼気を荒げるDIOにつられ、

 「Good boy」

 興奮していく自分を自覚する。



 「はッ、あ」

 あいかわらず手を押さえつけているけれど鋭利な爪が刺さるようなことはなく、逆に柔い肉球に包まれている。

 平気か。

 項を噛んでいたDIOが不意に牙を緩めて、気遣う。承太郎は、ん、と頷き、強張る下肢の力を少しでも抜こうと努める。脂を舐め取るためにざらついている舌で丹念にほぐされた後ろは、全て含み切れていないものの、太い灼熱を飲み込んで、承太郎はDIOとしっかり繋がっている。体内のDIOはそこに在るだけで理性を溶かし快感を与えてくる。承太郎はシーツを噛んで声を殺し、痙攣する。もう何度目かも分からない絶頂だった。対して、挿入を果たして、それから長く、DIOは動いていない。承太郎が達して締め上げる度、く、と鳴いて、承太郎の項を強く噛むけれど、腰は固定したままそこで時が止まっている。獣の本性に流されがむしゃらに突き入れては抉りたい衝動を、おそらく自身の全矜持を懸け、制御している。後背位で耐え続けることは辛いだろうに。以前よりも堪え性を見せるDIOの下、承太郎ばかりが艶やかに乱れている。

 「あ、あッまたッ、また……いッいく、ぅ」

 声を抑えなければと恥ずかしい、と思う余裕も手放していた。

 DIOの欲情にここまで呼応するようになった体を恨めしく思うのが半分。

 「DI、O、ふ、いい、いいから……おまえも」

 うごいて。

 強烈な快楽に溺れているせいで、ろくに声が出ない。だけどこれもDIOには届いた。低く唸るのを聞く。白む世界の中、お前はまったくおれの心を無駄にする、と顔を顰めたDIOが見えるようだ。ぐ、ぐ、と重く深く始まった交わりに涙が溢れた。承太郎は自分の目尻から流れる雫で唇を濡らし、DIOを呼び、DIOの律動に合わせていく。

 激しく自分を求め出すDIOの本能に悦ぶのがもう半分……いや、あとひとつ。

 「くすぐ、ったい」

 背に触れているDIOの胸元。こんな時でもふわふわの、優しい心地。やっぱり大好きだと思って笑った。路地裏で、庭で、愛らしい猫に、無愛想な犬に、たくさんの愛情を捧げていた幼き日と何ら変わらない笑顔で。



 人も動物も吸血鬼にも、共通している三大欲求とは、睡眠欲と性欲、残るは……誰にとっても、これが一番身近で需要なものではないだろうか。いつものように訪れた部屋。いつものように横たわっている獣を見下ろして承太郎は考えている。

 人の形であった時のDIOは、好きな時好きな相手から好きなだけ血を吸っていた。その流れで気紛れからか承太郎にも貪欲な指を向けた。信奉者なら涎を垂らして欲しがる白い指を承太郎は思い切り叩いて弾いた。DIOに吸ってくれと懇願して群がる者達をわざわざ庇う気はないけれど、有象無象の一員になるのは御免だ。不満げな表情を描くDIOの、への字の唇へ、承太郎は人指し指を突き付け啖呵を切る。てめぇも生きている限り腹は減るだろう、吸うなとは言わねえ、だけどおれの血を吸いたいと言いやがるのなら、対象はおれひとりに絞ることだ……一気に言い切ってやった。承諾するわけがないと思っていたし、結局は捩じ伏せられて無理やり吸血されるだろうという諦観があった。その際はせめて一発ぶち込む、ぐらいの心意気は持っていた……が、しかし。

 「よかろう」

 以来、DIOの体は承太郎の血でのみ、満たされていた。

 獣となったDIOの食欲を見た記憶が、承太郎にはない。何日、食事を取らないでいたのか。脇腹に浮いている骨が痛々しかった。なぜ見抜けなかったのか、自分の目の節穴に怒りが湧いた。

 「DIO」

 声をかける。耳はちょっぴりとも動かない。DIO、DIO、と、いくら強く呼んでみても眼下の光景は変わらなかった。DIOは起きない。嗅覚を刺激するニコチンが大嫌いなDIOだから、いつもならあっという間に奪われて捨てられる煙草をこんなにも近くで堂々吸ってみても、起きやしない。

 「てめぇに我慢は似合わねぇと、言っただろうがよ」

 DIOは約束を守っていたのだ、承太郎から生まれるもの以外を口にしないという誓いを貫いていた。睡眠欲にはあれほど素直で、性欲もそれなりに発散させていたのに、一番強かったはずの食欲を奥深くへしまい込んでみせた。吸血ならば加減もできるが獣の舌で生き血を味わったが最後、内臓まで貪り尽くしてしまう未来がDIOには見えていた。なるべく人間と会わないよう部屋の一つを根城にして、飢えて飢えて骨まで浮かせて、だけど苦しげな様子など微塵も見せずに、承太郎の来訪を、承太郎の手を、承太郎の欲を受け入れていた……ばかばかしい、と唾棄したい気分だった。

 「腹が立つぜ……黙って食われるおれだと思ってんのか。なめられたもんだ、なあ、DIO」

 肉を齧り取られたって骨を抉り取られたって簡単には死んでやらないのに。ポケットに突っ込んでいる手が握り拳になって震える。煙草を吐き捨てて床を汚しても、文句一つ言わない、起きない、DIO。屈んで抱き起こした頭はぐったりとして、ひどく重い。いやな重みだ。綺麗な正座をして承太郎は、その重い重いDIOを膝の上へと乗せた。もはや熱を失っている頬を撫でた。口元を撫でた。嬉しくもなんともなかった。毛並みは荒れている。かさかさしていて、手触りは最悪だ。ちっとも魅力的じゃあない。冷たいし硬いし最悪だ。取り上げられていた自由が戻ってきてもこれじゃあ素直に喜べない。

 「最悪、だ……悪い子だ、てめぇは」

 もう動かないDIOをきつく胸に抱く。そういえば、撫でるばかりで他にはなんにもしてやらなかった。気を抜くとぼやけた景色を見せようとする駄目な両目を擦って拭って、息を整えてから、承太郎はDIOの乾いた鼻先へ唇を当てた。自分から交わした、初めてのそれは、塩辛い味しかしなかった。



 自分を縛っていた男がいなくなったのなら留まる理由はない。重い腰を上げて、最後にもう一度その姿を目に焼き付けて、未練は男らしく断ち切って、背を向け、外への一歩を。

 「どこへ行く気だ?」

 踏み出す前に後ろから口を塞がれ、承太郎は硬直する。体毛は……なかった。唇を覆うのは滑らかな皮膚。透き通るように白い肌の手のひら。懐かしい声音。

 「貴様はこのおれのものだろうよ。どこに行かずとも、いいんだぞ」

 耳の付け根から、ちゅ、と音がする。キスを落としている……獣になってから覚えたおねだりのキス。調子に乗るな、あれはもふもふのお前がやるから効果があったんだぜ、と承太郎はスタープラチナの力で白い手を引き剥がした。まだ本調子ではない相手に肘鉄を入れつつ、素早く振り向き、向かい合い、そうして学ランの襟元を引っ下げた。外気に晒される張りのある肌、その下の血管を、オラ、と見せつける。DIOは、人間には持ち得ない美貌を、ほろりと破顔させた。輝く瞳が食欲に染まっていく。

 「Good boy……承太郎」

 先ほどと同じく口付けが為される。先ほどよりもずっと温かく、遥かに甘い口付けに宥められながら承太郎はDIOの、何日か振りの食事を体全身で味わい、しかと見届けた。

 「久し振りのわたしのキスはどうだった?」

 貧血に崩れ落ちる承太郎をDIOは優雅に支えて、まるでワルツの最中のように見つめ合う。揶揄する響きにむかむかしたので承太郎は口を噤んだ。DIOはお構いなしに上機嫌、承太郎の顔中にキスの雨を降らせる。できなかった分を取り戻すいきおいだ。

 「わたしとしては、だ。スタンド攻撃からわたしを解き放ったお前の魔法には劣るかなァ。お伽噺の王子様」
 「……Bad DIO」

 承太郎は憎々しげにそれこそ獣のように唸り、これはこれで手に馴染む感触の金糸を引っ張った。



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