「はッ」

 正気に返る。牙を抜き、女を遠ざけた。拍子に血の飛沫が空を舞う。遅れて、ひどく残念そうな声が耳をつんざく。うるさいと思った。声を上げるなと苛立った。泣きたいのはお前よりもわたしだ、と、恨めしささえ抱いた。欲しい分だけ与えられぬことよりも、目の前にある馳走を自らの意思で我慢しなければならぬ方がきつい。中途半端に灯った熱を落ち着けるためふうと息を吐けば、退けられてもめげずにベッドの上を這ってきたか、腕へかかるのは女の華奢な指。積極的に差し出される箇所は首筋。その肌にぽっかり開いた穴から流れる色は鮮烈の赤、動脈の艶やかな赤、命の源、我が糧となるもの。どうか、どうか最後まで、と女は執拗にねだる。首筋が、血の匂いが、鼻孔に迫り脳に届き、本能を犯す。捕食者は自分であり女は獲物、なのだが、己が蹂躙されていくようだ。どんな聖人でも腹は空く……その抗い難い飢餓感の中、けれど、懸命に拒もうとしている。というのに。女の誘いと懇願は残酷だ。血に彩られた肌が口元にまで近付いている。

 「あぁ」

 ああ牙が疼く。女の髪に手が伸びかける。はたと止まる。まさに触れようとしていた髪……それは黒髪だった。似ていたわけじゃあない。共通点といえば色だけだ。今目の前に在るのは艶やかなストレートだし、背中にまで流れる長髪で、香りも人工的な香料が強く出ている。だからちっとも似ていない。だけどその濃い黒を見た時、全身が脈打っていた。どんなに夢中となっていても脳裏に現れる……黒髪で黒いコートに身を包んだ、しかし瞳には輝く緑の光。柔らかな髪、癖のある髪、石鹸の匂いのする、今ここにはない髪。この体に触れるのは、それでないと、だめだと決めた。これは強制ではない、切っ掛けは何にせよ、自らが決めた。ならば耐えられないわけもないだろう。自分を御せない者が世界を制せるものか。ふたたび、女の体を押して離した。ベッドに転がる女……おそらくはまだ十代の少女を見下ろして告げる。

 「出ていけ」
 「ああそんな、お願いですどうか吸い尽くして」
 「親元へ帰るがいい。命あることに感謝しながら」
 「いやですッ殺して、あなたで殺して!」

 またも始まりかける押し問答。このままでは埒が明かない。だが少女の悲痛な叫びも分かる気がして最後に一つ、微笑をくれてやった。

 「先約がある……わたしが殺す者は決まっているのだ」

 結局、常人には見えざる腕で首根っこを摘まみ、部屋の外へと追い出すことにする。とすん、という軽い、尻もちついた音を最後に、扉は閉まる。あとは執事なり部下なりがどうにかするだろう。以後どうなろうと知ったことではない。牙で命を奪わなかった、重要なのはそこなのだから。

 自身の欲望を制したことにほっとした。同時、せっかく食事を取ったというのにどっと疲れた。ベッドへ突っ伏した。広々とした自分だけの世界に寝転がる。しかしいくら広くても所詮は独りきり。特にすることもなく仕方なしに、手近にあった枕を抱いて、目を閉じる。目蓋の裏側にはあいかわらずあれの姿が佇んでいる。無言なのは、声を忘れかけているからなのか。それも当然だ、もう何百日会っていない。それでも、たった一つの眼差しでこの身を縛っている。

 「厄介なやつ。先祖代々より続くのだから筋金入りだ。おれの生に付き纏う染みだ」

 傍にいないくせして生意気にも自分を支配しようとする。忌々しいことこの上ない男。想像の中で睨み返す。

 「そんな顔で見るなよ。おれはよく耐えている。そうだ、貴様だけだとも。この牙が殺すのはお前だけ……約束は、守る」

 誓いを新たにしても、その声は届かない。届けられる距離でもない。古馴染みから奪って継いだあざが、こんなちっぽけな星型だけが、ただ一つの繋がり。肉を抉るいきおいで掴み、握り、せめてこの痛みが海を越えて伝わればいい。くだらない感情だ、だけど思わずにはいられない。お前を殺してやりたい……外の喧騒でかき消されそうなほどに小さくひとりごち、かの肌に見立てた白い枕を噛む。殺してやると物騒な願望を口にしながら牙は枕を突き破らない。ただただ甘く刺さる。それが、寂しいという思いから来る行動だとは信じたくなかった。赤ん坊じゃああるまいし欲求を物にぶつけるなんて百年生きた男がすることではない。だが確かに、その感情を感じてしまっていた。会いたい……自分の心が萎れている自覚を持って、眠りにつく。外はまだ暗い夜なのに。

 おれの時間はこれからなのに。

 起きていたってつまらない。DIOの一人寝は記録を更新し続けていた。



 一時休戦中、と言えば聞こえはいいが、要は負けたのだ、ジョースターとの因縁にDIOは敗れた。

 因縁の末裔と一騎打ち、純粋な力と力のぶつかり合いに押し負け、上半身が割れて砕け散ったところでDIOの記憶は途切れている。次に目が覚めた時……脚への一撃で死んだつもりだったのが目覚めるという事態に首を捻りつつ起き上がった時、DIOは館の中にいた。間違いなく住み慣れた住まいだった。昼間でありながら日光の射さぬ部屋に運ばれていた。そう、運ばれたのだ、誰かに。どうしてこんな場所に、いったい誰が、とそういったことを考えるよりもまず先に探したのは一人の人間。『DIO』を倒した男はどこだと首を巡らし、次いで、DIOはぎょっとした。そいつは、すぐ近くに座っていた。真後ろに座ってじっとしていた。DIO自身は振り向けなかったから、ザ・ワールドの視界を介して見る、崩れた体育座りのような格好はとても英雄とは呼べぬ……幼い迷子のようだった。

 「貴様がわたしを連れてきたのか承太郎」
 「あんがい軽いんだな……破片集めるのには苦労した。足りないパーツがないか確かめた方がよいぜ」

 ふわりと、煙草の臭いがした。

 「おふくろ……おれの母親は助かった、らしい」

 DIOは苦い顔をつくった。五十日の期限は過ぎただろうに。元凶はいまだこうして生きているのに。空条ホリィのスタンドは大人しくなったと。それは一度、ザ・ワールドを打ち砕かれたからなのだろうか。奇跡のカラクリはDIOにも分からなかった。承太郎には種も仕掛けもどうでもいいことだったのかもしれない。旅に出てDIOを倒そうとした動機は母を助けるため、承太郎の中では一貫していたはずだ。

 「仲間も無事と聞いた……じじいも、おれの血で輸血してどうにか」

 しくじったかヴァニラ・アイスめ……とは毒づけなかった。花京院を殺し切れなかった自分も大概だ。信念を持った人間のしぶとさにはほとほと呆れさせられる。ジョセフは餌として見なしていたから息の根を止めることが惜しくなり止めを刺さなかった。今となっては全てが悔やまれる。そもそもこいつに負けている時点で、と、DIOのプライドはもはや瓦解寸前だった。放っておけば勝手につらつら連なる思考。頭痛と吐き気が湧いてきて、それで、つい、いつの間にか寄り掛かっていた。殺そうとした相手、殺されそうになった少年の背中に。

 「よかったじゃあないか。貴様らの勝ちだ。大団円だろうよ……承太郎」

 背と背が触れ合った瞬間、承太郎は震えた。その反応、DIOの傷心には心地好い慰めとなった。なるほど、と目を細めた。これは決定的な隙だ、まだ完全敗北したのではない、と思えた。DIOは、自分という最大の敵を殺せなかった承太郎に勝機を見出していた。悪党とはいえ手を汚し命を奪う『殺し』を忌避したのか、DIOの『知識』に利用価値を求めたのか、何でもいい、何でもよかった。いずれにしろ承太郎が選択を誤ったのは確実だ。せっかく用意された最高のシチュエーション、高祖父の代から悲願だったろう、決着。承太郎はふいにした……因縁を絶たなかったとは愚かなこと。DIOとしては笑いを抑えられなかった。顔中に広がる邪悪そのものの笑みを背中越しに察したか、承太郎は低い声で牽制した。

 「めでたしめでたしとはいかねぇな……てめぇが生きている」
 「解せんのはその辺りだ、一応聞いておく……なぜ日光に当てなかった?」

 事情などどうでもいい、生きているという結果があればいい……一方で、あそこまで追い詰めておいて最後の仕上げをしなかった……始末されなかったのはどうしてなのか、微塵も気にならないわけじゃあなかった。好奇心のままにそこを突くと、すう、と深い音が聞こえた。何のことはない、それは承太郎の呼吸音だったのだが、DIOは少し、心を揺らしていた。今の状況をあらためて実感した、とも言えた。始末、抹殺、排除、そんな思いしか向けたことのなかった相手と背中合わせで対話している、事実。拳を向け合うのではない、承太郎は言葉を探すために一呼吸置き、DIOはそれを待っている。こんなことが現実としてある、だなんて。

 「そうする理由がねえ」

 ぽつりと答える承太郎には絶対に悟らせないよう、動揺の一切を隠し、DIOは嘲笑してみせた。

 「あるだろう、未来を考えるのならば。わたしがこのまま大人しく日影を歩むと思っているわけじゃあないよな」
 「もう二度と、好き勝手にはさせねぇぜ。てめぇが」

 突然。

 「ンンッ?」

 DIOは前のめりになった。承太郎の方から体重を預けてきたのだった。これは、完璧な不意打ちとなった。預けるだと……ほんの数時間前には殺し合いをしたのだぞ。そう思うと今度こそ『少し』では収まりきらないほどには動揺した。

 「てめぇが心を入れ替えるまでは」
 「は! あり得んな」
 「分かっていないようだから教えるが、DIO、一度死にかけた体が元通りに回復すると思うか?」

 問われ細胞が粟立った。問う承太郎は穏やかだった。それに余計ぞっとした。心臓をわし掴まれたようだった。床についていた手の、その甲を上からなぞったのは承太郎の指だった。え、と思う暇もなかった。そのままぎゅうと強く握り締められた手は痛みを生んだ。なんという激痛、骨が折れる……いいや馬鹿な、この程度で折れるはずがない。人間に手折られるほど吸血鬼は柔ではない。だけど承太郎の手から抜け出せない……ザ・ワールドの力を持ってしても生身の承太郎に敵わない。いよいよ感情を隠し切れなくなってどういうことだと牙を剥いた。

 「貴様ッ、これは」
 「体が重くて不自由だろう、『人間』の頃に戻ったみてぇに、よ……その通りだ、今のてめぇはさして人と変わらん。これは、枷だと思いな」

 承太郎の握力が緩まった。ならばここで手を引けばいい。屈辱だが一旦逃走するのも手だ。即刻こいつから離れるべきだと分かっていながらDIOは承太郎の声に縛られて動けなかった。承太郎は変わらず、穏やかでそれ以上に優しかった。それに、DIOを縛ったのは声だけではなかった……承太郎の手の温もりにも逃げ道を塞がれてしまった。手から手へ伝わる熱、血液の流れ。感じ入り、吐いた息にこもる熱をとにかく誤魔化した。動けないままゆったりと過ぎていく時間。誰も来るなと念じていた。誰かに見られたい光景ではない……誰かに邪魔をされたくはない、紛れもない本心だった。

 「いくら数多の血を飲んだところでジョナサンの体である限り、その枷はジョースターにしか外せないぜ」

 後頭部に当たったふわふわとした心地は承太郎の髪だろうか。ジョナサンという先祖に似た、けれど先祖とはまた微かに異なる漆黒の色。煙草の臭気の中に見つけた、飾りの気のない、いい匂い。石鹸の匂い。もう顔も思い出せない母の匂い……もう限界だった。このおれにこんなことを思わせる、こんな現実! と、DIOは吼えた。知らぬ自分が生まれようとしている感覚は堪えられるものではなかった。大人しくしてやることはないとばかりに振り向きざま、押し倒した承太郎の上へ乗り上がって、首に指を突き付けた。どうだ、支配してやったぞ、と唇を吊り上げた。

 「DIO。聞けよ」

 真下の体は強張ってこそいたけれど焦りは見えなくて、DIOはとっさに次の行動を取れなかった。

 「財団の監視に、期間を設ける。そのあいだ血を吸うなとは言わねえ。てめぇも生き物だ、腹も減ると思う。だから」
 「だから、殺すな、と? 貴様の国の坊主のように殺生をするなと? 節制を心掛けよと、このDIOに」

 なんたる侮辱、なんという屈辱。百も年下の相手へ怒りを発露させた。DIOの荒々しい唸りを承太郎は目を瞑って聞き、DIOの突発的な激情が落ち着いた頃、その口が開いた。

 「その期間で条件を守り切れれば」
 「きっとわたしの心に陽が差して性根も入れ替わって道は正されると言うのか? 馬鹿馬鹿しいことだ……第一それを守ってわたしに何の得がある」

 だったらSPW財団やジョースターらの監視をかい潜り、どこかで身を潜めた方がよほどマシだ……だが、この体で? という不安も過った。スタンドを持てども人間以下になった体を引きずって何ができるのか。

 「やる」

 承太郎が目蓋を持ち上げて、DIOは緑の瞳と目が合った。やる、とは、なにをと息を飲めば、頬に添えられた手がDIOを引き寄せた……まるでDIOの不安を撫でて取り払うかのように、そっと、吐息が触れる距離まで。

 「おれの血を、てめぇに」
 「承、太郎」
 「やるから、DIO」

 口付けをされるかと、思った。



 「されなかったのだがな」
 「はい?」
 「なんでもない。忘れろ」
 「そうしましょう」

 頭を振る。記憶が生々しいだけに、いっそう『今』が辛い。灰色の日々の『今』が。

 舌の上のワインを飲み込む。嗜好に合う逸品のはずなのだが、味はしない。灰色だ。美しい草花の図鑑を眺めている。色取り取りの花々を瞳に映す。梅、桃、桜、どれを見ても何の感想も思い浮かばない。灰色だ。全てが灰色だ。どうしてだなんて考えるのは今更だ。卓に付いた肘。顎を手に乗せて半眼で見る世界。それは時の止まった世界よりも静かで色がなかった。傍ではさっきからテレンスが、今朝来た郵便を仕分けしている。あの白い封筒はダンスパーティの招待状だろうか。表の社交界を知っておこう、と、ふとした気紛れで何度か出向いたことがある。かつてなら餌の一人や二人は持ち帰ったりもした。今、出席したところでそんな欲求は満たせないのだから価値などない。全部破いてしまえよ、とテレンスに命じる。執事はちらりとこちらを見た。何か意味ありげな視線だ。気になる。

 「なんだ」
 「いえ。処分する方がわたしも楽なのでありがたいのですが……いいのかな? と思いまして」
 「いいのかな? なにが」

 引っ掛かる言い方をしたテレンスは席を立ち上がり、わざわざDIOの元までやって来る。これ、と恭しく献上されたのは招待状の倍以上はある、幅広い茶封筒。

 「だから、なんだ、これは」
 「これも破いてしまっていいものかと一応悩んだので」
 「構わん。このわたしに用がありながら手紙で済まそうとするなど愚かだと思わないか? 破り燃やし塵にしろ」
 「ではそのように。日本からの、なんて珍しいですから勿体ない気もしますがね」

 テレンスが回収しかけた封筒を思わず二度見し、瞠目する。

 「日本だと」
 「はい。東京の」
 「早く言え」

 引っ手繰るようになってしまったのは失敗だ。テレンスの目にはさぞかし無様に映っただろうがそれを気にしていられない。心臓が痛い。肉体を引き裂かれるだとか波紋をくらうといったものとは異なる疼きだ。痛い、痛い、ああ痛いぞ。口に出すことを堪えて、しかし存分に牙を伸ばして、封筒を胸に抱くDIOは痛いくらいに実感していたのだ。興奮していることを。喜んでいる自分自身を。腕の中の存在を十分に噛み締めてから、やっと中の確認をする。差出人を見る必要はない。爪で封を切り、中身を取り出していく。大きな封筒に見合った大きな用紙は原本の写しらしかった。合格通知表、と記されている。それとおまけが一つ……航空券が一枚。

 「待たせおって」

 世界が、変わった。舞い浮かぶ埃の一粒にまで色が付いた。深呼吸してから静かに言い放つ。

 「夕刻、発つ」
 「お召し物を用意いたしましょう。日本の初春は寒いですから」

 DIOは長く下ろしていた前髪をかき上げた。手から覗く眼は爛々と輝いてより世界を鮮やかにする。



 暦の上では春、しかし夕焼けが終わるのも早く、辺りは既に真っ暗だった。校門まで辿り着いても、桜は咲いていない。どうやら時期としてはまだ早かった。想像していた花が未開花だったこと、少なからず惜しく思う。だからなのか、コンクリートで建てられた学び舎は寒々しく見える。それを裏付けるように、次々と下校してくる少年少女の息はあんなにも白い。門を通り過ぎていく若さ達を見送るDIOもまた、ほう、と息を吐いた。自身の力で、普段の低体温を無理くり上げて、人並みの平熱まで持っていく。すれば、息も白くなる。なるべく人間らしく振る舞っていようとした。

 吸血鬼には外の気温など関係ないのだが、執事が全身を覆うように大きな外套を用意したことについて、褒めてやってもいいだろう。

 この大人しい国、もしもいつもの格好で出歩いていたならそれはちと刺激的過ぎただろうな、と、ここまでの道行く途中何度か感じた。国民性なのか、未知への忌避や異物への排除傾向が強いように思う。下手に目立つことは無駄だ、意味のない注目は煩わしいだけだ。だが、町内を散歩がてら周っても、長身や金髪、整った顔立ちには一瞬の注視をされつつ、一般市民が擦れ違うDIOを見る時は等しく遠慮がちだった。声を掛けてくる連中もいなかった。ちくちくとした小さき視線は少々煩わしかったが不快感を煽るほどでもなかった。それらは全て、この外套のおかげだ。白人がコートに身を包み、見知らぬ土地を物見遊山しているように見えただろう。

 寒そうな振り。人であった頃を思い返して、人間を演じて、襟を寄せる。

 そのありふれた仕草に見惚れる学生が何人いようとも関係ない。DIOは平凡な人間への興味を抱かない。だけど、しいていえば、とある少女らの密やかな囀りだけは、沈澱していたDIOの意識を思い切り引きずり上げてくれた。

 『外国人といったらやっぱりお客サンじゃあないの、ほら、ジョジョの』

 ここ数ヶ月で日本語は粗方覚えている。そうでなくともその響きを聞き逃さない自信がある。

 「やあ、君たち」

 好青年というやつを演じる時には悪いが昔の宿敵を参考にさせてもらっている。



 桜を見られなかった以上に残念なことだ、承太郎の表情に驚きの色がなかったことは。いや、考えてみれば血統の繋がりがあるのだから互いの位置情報は知り得てしまう。現にDIOもそれを頼りに学校へ来たのだ。承太郎とて星のあざで感知して知っていたのだろう。大体にして自分を呼び寄せたのは承太郎なのだ、こうして待ち伏せしていることも想定内、今のところ何もかもがその手の内というわけか。もちろんDIOは面白くない。一番最後の生徒として校門を抜ける承太郎がこちらへ一瞥もくれず帰路に就こうとしている。自分を置いて通り過ぎようというその態度、これも、不愉快でないわけがない。おれがあれほど虚しい夜と昼を繰り返したというのに、お前は、と思う心が止まらない。

 本体の意向に応えたザ・ワールドが腕を引く。承太郎の鎖が揺れ、歩みも止まった。つれないな、と呼びかけた。承太郎は無言を貫いているけれど、存外素直に、ザ・ワールドに引っ張られるまま、門にもたれかかっているDIOの前へと立った。

 「ふん」
 「ふ」

 互いが吐く、白い息。相手の体内に入ったもの……それをまた吸うということ。白さが目に見える分、吸い込むのを躊躇する場面ではないのか。DIO自身は気にしていなかったが、承太郎は平気なのか、と訝しむ。吸血鬼の、化物の体を通った空気で唇を、喉を、肺を満たすことへの嫌悪感はないのか。疑問に対する答えのように、承太郎の呼吸に乱れはない。

 「承太郎、だな?」
 「他の何に見えるってんだ」
 「まだ薄いのだ……現実感が」
 「確かめればいい」

 ザ・ワールドは手を離したというのに承太郎が近付く。

 「見せろ」
 「ん」

 傲慢に命じれば反発もなく反らされる首。ちらつくあざ。見つめてくる瞳。カイロの市街で戦った時、それと、館で押し倒した時を数えてこれで三度目の至近距離。長い睫から光が零れている。緑の眼差しは暗がりでも消えやしない。頬がうっすらと赤いのは寒さのためだろう。それ以外は、強情さを物語る眉も、へし折ってやりたくなる鼻っぱしらも、熱い唇も変わらずに持っている……夢にまで見たものが今ここに在る。そうだそうだこんな顔だった……夜の闇もDIOの障害にはならず、絵画に溺れる好事家のごとく一心に眺め回す。だが触れはしなかった。直接に触れたが最後、箍が外れそうだったから。それは余裕のない己を曝け出すことになる。冗談ではない、失態はもう沢山だ。

 「不合格通知、じゃあなくてよかったぞ……合格おめでとう」

 これだけは心からの祝辞。DIOは承太郎の頭の良さを知っている。現代での難関大学に五十日のブランクがあっても受かったのだ、自分を倒した者ならばそうでなくては……期限が切れて訪れる新たな門出には相応しい吉報だろう。

 承太郎が提示してきたのは『おれの受験が終わるまで』というもので、その一年にも満たない期間など、取引に乗ったDIOには瞬きする内に過ぎる一瞬、のはずだった……これが予想外に長かった。だけどようやく時は来たのだ。声が弾んでも、心が躍っても、体が湧き立ってもいいだろう。しかし承太郎はというと、どこまでも素っ気なくてそれがまたDIOの中で不満となる。

 「時に承太郎、学生生活は充実していたようだが」

 ゆえ、歳相応とは言えないような悪戯心が頭をもたげて、ほくそ笑んでいた。

 「あれはファンクラブとでも言うのか? 貴様を待っていた時間、彼女達と会話を楽しんだ。いろいろと話してくれたよ……ジョジョがアメリカへ行ってしまうから寂しい、とか、復学してからのジョジョは優しくなったとか。時々上の空だとか。あと……ジョジョは」
 「おれは?」

 承太郎の睫がふるりと震えた、のが見えた気もしたが確信はなかった。細かな変化を観察している暇がDIOにはない。からかうつもりで言い始めたのに自分でも驚くほど真剣に承太郎へ問おうとしている。噂話の真実を。

 「貴様が今、恋しているんじゃあないか、とか……な」

 受験を間近に控えながら、どこかふわふわとした柔らかな表情を浮かべるようになった空条承太郎に聞いた者がいたそうだ、ふざけ半分の気持ちで気安く……恋に落ちたのか、と。そうして、承太郎は。

 「何と返したかといえば、貴様はふと笑って」

 それまで誰も見たことのなかったような、とびきり甘い笑顔を見せて。

 「待っている、と言ったんだぜ」

 あまりにも簡単に、呆気なく、噂を是とする承太郎と真正面から相対して、冷やかそうとしたDIOの方が圧倒されている。真っ直ぐな目の中に飲み込まれていく。絶句したDIOを見てどう思ったのだろう、承太郎はゆるゆると首を横に振った。

 「おいおい引くなよ、恋ってのを肯定したわけじゃあねえ。はぐらかしただけだ……ただ、まあ、嘘を言ったつもりもねぇけどよ」

 待っていた……と、もう一度同じことを声に出し、承太郎がもう一歩、詰め寄る。体と体の空間が零へと近付く。唐突に、DIOは強烈な喉の渇きに襲われた。遅れてやって来た本能だった。

 「は……はは、おかしなやつだな、待っていただと。血を吸われるのを。このDIOに殺される可能性を? 待っていた? ……正気か?」
 「どうだかな……それも確かめてみるか?」

 そうしたいのならそうしろ、と、承太郎の指が掠めた。軽くひっかいてくすぐるように、DIOのだらんとぶら下がっている腕の先、手のひらへぴりぴりとした感覚をもたらす。DIOは舌を打つ。それから本能にあえて身を委ねた。手を伸ばすまでもないところにある承太郎の腰を掴み、なおも傍へと抱き寄せていた。太腿同士が触れ合う。腰骨がぶつかり合う。枕とは比べるべくもない。生きた体の心地好さがある。くん、と嗅覚が働く。やはり石鹸の、煩くない匂いが香る。今日は煙草の臭いがない。吸うのをやめたのか……あるいは吸わなかったのか、今日だけは?

 「本当に待っていたのか」
 「こいつが疼く度に押さえて掴んでは思っていたぜ」

 承太郎の視線が流れ移ろいで自らのあざを見やる。あの時の続きを夢想していた、と、唇は吐露した。あの時……DIOを引き寄せたあの瞬間をと。

 「てめぇこそ、DIO」

 帽子を外さないよう丁寧に、頭へ指を差し込めば温かい。ああこれだ、と手触りを堪能しながら胸元に顔を埋める。承太郎もDIOの肩へ頬を擦り寄せた。

 「約束、守ったんだな」
 「どう、だかな」

 これでは単なる鸚鵡だと思うがそれ以上の捻った返しはできなかった。悔しかったので、分からんぞ、財団を騙すことなど容易いんだ、とわざと不穏の種を撒く。本音は違う。天にでも神にでも何ならジョナサンへだっていい、誓って、破っていない、おれは守り通した……承太郎の両肩を揺さぶり首筋に噛みつきそう主張したいのを我慢してにやりと嗤う。

 「見りゃあ分かる。おれから逸らしもしねぇ目を」

 すっかりと見抜かれていたが。

 「ほしいか。おれの」

 おれの、と幾度か繰り返し、ここに来て初めて承太郎は言いよどんだ。やがてそのあとに続くのは、おれの血が、という言葉だけれど、本当に聞きたかったことはそれじゃああるまい。DIOは承太郎の耳を覆うように手を添える。期待と不安の狭間で揺れる、十代の少年と表現するしかないその顔に、

 「欲しい。お前が」

 口付けてやらぬほど意地は悪くない。そして、そうしたいという想いも嘘ではないのだ。吸血衝動よりも強い想いによって自分の中にある、殺したい、の意味合いが変わっていることをDIOはしかと認めつつ、承太郎の唇を塞いでいる。



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