蜜より甘く
□scene2
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拠地の部屋から窓辺の外の海をもう何日眺めただろうか。寝付きの悪い名無し子は煙草を吹かしながら溜め息を吐いては紫煙を吐き出した。しかし名無し子にとってはこれは当たり前の事で飯島の元に居た頃なんかは常に頭の中で警戒音が鳴っていたし足音が聞こえては体を震わした。ここでの生活はそれに比べたらまだマシな方だ。
『とはいえ何もしないっていうのも拷問に近いな』
ここに囚われてから…いや、居着くようになってから名無し子はある程度覚悟はしていた。なんせあの鬼兵隊は幕府に目を付けられていたり攘夷浪士に目を付けられている上いつ自分も命を狙われるかもしれないし高杉自身から命を受けるかもしれないと思っていたので拍子抜けしてしまっていたのだ。常に自分の傍に高杉は居て特に何をするでもなく1日を過ごす事がここでの名無し子の日課になっていた。
『本当昔から何考えてるか分からないわね“晋助ちゃん”は』
「おいおい。月とお喋りとは随分酔狂じゃねえか名無し子」
『し…晋助?!』
「煙草なんか吹かしちまって不良になっちまったもんだな」
『…放っておいてよ』
クツクツと笑いながら畳に腰を下ろした高杉は酒瓶をテーブルに置き煙管を口に咥えながら目を細めたので名無し子は首を傾げながら高杉を見据えた。
『何よこれ』
「見りゃ分かんだろ」
『そうじゃなくて…』
「お前は酒いけんのか?」
『まあ…それなりには』
「なら付き合え。1人で呑んだってつまんねえからな。女が居るだけマシだ」
何か言いたげな名無し子などお構い無しに高杉は酒の蓋を回し持ってきた猪口を名無し子に差し出し渋々とながらもそれを受け取る名無し子に酒を注いでやった。
「お前の為に一級品の酒開けてやったんだからありがたく呑めよ」
『頼んでないし』
「ふん…お前の可愛いげのなさにはきっと銀時達もぶっ飛んじまうだろうよ」
『はいはい。褒めてくれてありがとう』
何がそんなに面白いのだろう。本当に高杉は得体の知れない人間だ。あの頃なら分かった事も大人になった今ではさっぱり分からない。どうしてこうして高杉に笑われてからかわれるのかも分からない。いくら考えても答えは出てくれそうにないので名無し子は煙草を灰皿に押し付け酒瓶を手に取った。
『注いであげる』
「気ぃ利くじゃねえか」
『こんなの慣れっこだから』
「なら溢される心配はねえって事だな」
名無し子の表情が少しだけ曇った事を見逃さなかった高杉はあえてそれには触れず口元に笑みを浮かべながら名無し子に猪口を差し出した。
「流石に旨いな」
『そう。良かったね』
「見てねえでお前も呑んだらどうなんだ」
『いただきます』
猪口を口に近付け少しだけ酒を流し込んだ名無し子は喉が熱くなっていくのを感じた。これだから酒はいいのだ。こうして喉からじんわりと体中に熱さが広がり最終的には何も考えない位に頭を麻痺させてくれる。嫌な事など考えさせる暇もない程に。
『ふぅ…』
「もう酔っ払っちまったのか?」
『まさか。ただ美味しいなと思って』
「顔赤くさせて強がってんじゃねえよ」
『うっ…嘘!』
「嘘だ」
『晋助…』
「クックッ…そんなに睨むな。騙された方が悪いしそもそもガキじゃあるめえし騙されんなよ」
自分がそう笑えば目の前にいる女は勇敢にも睨んでくるではないか。高杉晋助を艶っぽい視線で見る女は居ても睨む女なんてまずこの女だけではないだろうか。変な煩わしさや媚びる事のない堂々たる態度に高杉自身は満足そうに口端を上げる。だから名無し子はいいのだ。傍に置いておいても面倒臭くもなく心地がいい。同志達もきっと名無し子なら喜んで受け入れてくれるだろう。
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