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□初めまして、好きです。
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 総司、と僕の名を呼ぶ声がした。

 過ぎゆく夏を惜しむように賑やかさを増す人混みで、それでも彼の声は、胸に染み込んでいくみたいにゆったりと僕のこころを揺らしていく。

 かこんかこん、と規則正しく鳴っていた下駄の音がぴたりと止み、戸惑うように、アスファルトを一度だけ擦った。

「なあに、はじめくん」

 左右に並ぶ露店を眺めていた僕は、すぐ後ろで立ち止まっている彼を振り向いた。
 少し重たそうな生地の、黒の浴衣をまとった彼は、まるで制服や私服を着るように自然にそれを着こなしている。
 彼の和服姿など見慣れているはずがないのに、飽きるくらい何度も見てきたような、不思議な感覚が僕の胸のなかにあった。
 けれど、それを言葉にすると怪訝に思われそうで、かといって何も言わないのも失礼かと思い、だから僕は「似合ってるね」と、今日何度目かの台詞を口にする。

「その言葉はさっきも聞いたが」
「だって、似合ってるんだから仕方ないじゃない。きっと君はなにを着ても似合うんだよ」
「……総司、」

 喧騒のなか、彼はもう一度、僕の名を呼んだ。
 行き交う人々は道の真ん中で立ち尽くす僕たちに眉をひそめるも、すぐに連れとの会話に戻っていく。
 けれどやはり邪魔には違いなかったのだろう、かこん、と下駄の音がしたかと思うと、人混みに背を押された彼が、僕の胸にとんと飛び込んできた。

「わっ、」

 思わず抱きとめたその身体は、想像していたよりも筋肉質で骨張っていた。身体に回した手が、無意識に背中の凹凸をなぞっていく。
 ずるいなあ、と僕は思った。いつも更衣室で見ていた彼の身体は、小柄で華奢で細かったのに、こんなに綺麗に鍛えていたなんて、僕は知らない。

 くすぐったそうに身体をよじる彼と、その彼を腕に閉じ込めている僕を、周りが怪訝そうな、興味深いとでもいうような顔で眺め、過ぎ去って行く。
 その視線がどうにも気に食わなくて、僕は彼を抱く腕に少しだけ力をこめた。

「総司、」
「ん?」

 何度目だろうか、彼が僕の名を呼んだ。
 なんの用?とこちらが聞く前に、やわらかい髪を揺らしながら、彼はぽつりと言う。

「手を、つなぎたい」
「……手を?」

 僕の首すじに顔をうずめて、彼はそう言った。どちらのともつかない心臓の音が、とくとくと早鐘を打っている。

「駄目だろうか」
「ううん、そんなことないよ。いいよ」
「そうか」
「……はい、どうぞ」

 そう言って僕が手を差し出すと、彼の口元がふっとほころび、「ずっとこうしたかった」と、嬉しそうに僕の手をとった。

 彼の手は小さくて、細くて、少しひんやりとしている。そのすらりとした指をそっとなぞると、彼の頬や耳はまるで熱にでも浮かされたようにどんどん真っ赤になっていった。
 やっぱりずるいよ、と僕は思う。普段はあんなに無表情なくせに、今日は笑ったり、照れたり、あまりにもかわいくていけない。

 僕ばかりこんな気持ちにさせられるのも不公平だと思い、少しだけ意地悪してやろうと「ずっとって、いつから?」と、僕は彼ににんまりと笑いかける。
 すると、彼は思いのほか真剣な表情で、

「150年ほど前から」

 それはさすがに嘘でしょう、と僕は思わず笑った。


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