◇◆霧隠才蔵(育児編)◆◇

□安息の前に
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昔馴染みの気配が屋敷の門前に立った。

来訪はわかったから、黙って静かに入ってきてほしい。
そんな俺の念じなど伝わるはずもなく、無遠慮に賑やかな声が上がる。


「才蔵! 居るのか!」


目を二重にして睡魔に誘われていた華が、腕の中で身じろぐ。


「……いいから寝てな」

「おい、才蔵っ」

「……」

「才蔵ー!」


どかどかと床を踏み鳴らす足音まで近づいてくれば、寝ろと言うのは無理な話だ。
華の黒目がちな瞳が見開かれ、小さな手足がもがくように蠢いた。


「あーあ、起きた」

「……おお! ここにいたのか、才蔵」

「うるさいよ」


開け放していた障子の先に現れた相手を、溜息混じりにたしなめる。
華はまあ、仕方がないとして。


「名無しさん、休んでるんだけど」

「そ、そうだったのか……すまん」


ようやく小声になった幸村は、何もそこまでしなくてもいいのに、肩をすぼめて小さくなりながら入ってきた。
妙な格好のまま辺りを見回す。


「百世丸はいないのか」

「佐助と秘密の城つくるんだってさ」

「はは、それは楽しそうだな」

「裏の庭にある右から二番目の木の根元に」


別に俺が探ったわけじゃない。百世丸が勝手に話して行ったのだ。
外に出る時は行き先を告げるという名無しさんとの約束を、忠実に守っているのだろう。


俺の前に幸村がどっかり腰を据える。
その一挙手一投足を見守って、華の首が傾いた。


「名無しさんは具合でも悪いのか?」

「別に」


小さな温もりを抱え直しながら答える。

俺はもとから、夜は任務に出ることが多かったが、最近は日中も軍議が立て続いた。
まだ生まれて半年ほどの赤子とやんちゃ盛りの百世丸を一人で抱え、それでも俺が戻れば食事の膳や団子の用意に励む名無しさんを、やっと休ませてやれる日が今日だったのだ。


「で、何の用?」

「ああそうだった、これをお前に」


幸村が懐から一冊の書物を取り出す。
受け取ろうとすると、華の小さな腕が伸びた。


「おっ、華もこれが欲しいのか。待て、お前には違う土産があるんだ」


そう言って再び懐を漁り始めた幸村が、俺の膝元に無造作に置いた書物の表紙。
『日の本一優しい育児書』が目の前の男の筆跡であることには、気付かなかったことにした。


「ほら見ろ! 何の形かわかるか?」

「あぅー」

「なにこれ」


素直に頬を緩めた華の代わりに尋ねてみると、幸村は不満そうに眉を寄せる。


「どこからどう見てもうさぎだろう」

「へえ、これがうさぎ」

「他の何に見えるんだ」

「鬼」


手足はそれなりにわかった。問題は頭部だ。

丸い玉の上から二本、角が生えている。
これが本当にうさぎだというなら角ではなく耳なのだろうが。


「城の女中に教わってな。行商が来た時に、目が詰まった丈夫な布を選んでもらった」

「へえ……」


ということは、これも幸村の手製だ。
別段得手ではない針まで取って他人の子供にかまけている暇があったら、その教えてくれた女中とやらと仲を深めることもできただろうに。

呆れる俺とは対照的に、玩具を求めて華が身をよじった。


「お、気に入ったのか! 思う存分遊んでやってくれ」

「わざわざどーも」


布の塊が華の手に渡る。
振ればどこからともなく、ちりんっと音がした。

幸村が得意気に胸を張る。


「中に鈴が仕込んである」

ちりんっ。

「音が鳴ると面白いだろう」

ちりちりんっ。

「作ったもので遊んでもらえるのは、なんともいいものだな」

「ならお前もさっさと相手見つけな」


独り身が犬猫を飼うと婚期を逃すこともあるというが、俺と名無しさんの間に子が生まれて以降、幸村にはそれに近い傾向があると思う。
危機感がない本人の尻を言葉で叩けば、これ以上居るとあらぬ方向へ話が向かうと察したのか、幸村ががばっと立ち上がった。


「お、お前まで兄上のようなことを言うな!」

「あー、やっぱり信幸さんも」

「もういい、用は済んだ! 俺は戻るぞ」

「わかったから、騒がないでよね」


逃げるように向けられた背をそう諫めたところで、ちりんっと一際強く、鈴が鳴った。
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