◇◆霧隠才蔵(育児編)◆◇
□ひなまつり
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節分を過ぎて数日。
全て拾い集めたはずの豆まきの名残が、まだ毎日のようにどこからともなく出てくる、そんなある日のことだ。
「才蔵さん、今、お忙しいですか……?」
書物をめくっていた俺のところへ、名無しさんが遠慮がちに訪ねてくる。
見れば手を引かれた華も障子の枠からこちらを覗いていて、さらに近づく気配を待てば案の定、百世丸もひょこっと顔を出す。
――なにそれ。団子?
框に連なった様子を眺めて、密かにおかしくなる。
期待の籠った眼差しからすると、話があるというよりも頼み事の類らしい。
そんな気配を察して書物を閉じた。
「なに」
「物を取っていただきたくて」
「炊事場?」
「いえ、押し入れの上なんですが」
そこに何があっただろうかと束の間考え、ああ、と呟く。
「ひな飾りね。もうそんな時期なんだ」
「はい。今年からは華と一緒に飾ろうと思うんです」
「へえ」
初節句の時に名無しさんの母親から贈られた人形は、なかなか細工が凝ったものだった。
百世丸はいいとして、まだ幼い華が小さな装飾を誤飲しては事だからと、昨年までは名無しさんが箪笥の上に飾り付けていたのだ。
それを一緒に、ということは、場所も床の間に移すのだろう。
――掛け軸の裏、片付けさせないとね。
ご丁寧に紙で作った小さな袋まで設置して、そこを節分で集めた豆の備蓄庫にしている犯人を、俺は知っている。
ちらりと目をやれば、百世丸がわざとらしく瞬きを繰り返した。
「誤魔化すの下手すぎ」
「はい?」
「いや」
尋ね返してきた名無しさんには首を振って、腰を上げる。
歩み寄り、先程から何やらひとり浮かない顔つきの華の頭をぽんと撫でた。
「お前さんが飾るんでしょ」
「んん……」
「……ねえ、機嫌悪いんだけど。この人」
名無しさんに確かめれば、苦笑が返ってくる。
「ええと、私が桃の節句の意味を話したら、少し拗ねてしまったんです」
「元気に成長してほしいとか、そういうことじゃないの」
「それもそうなんですが」
「はまぐりだから! ね、華」
――蛤?
訝しむ俺とは対照的に、華は百世丸の問いかけを受けてこくんと頷いた。
蛤といえば、吸い物にして桃の節句に食べるはずだ。
料理好きな名無しさんのことだから、人形を飾る理由ばかりではなく、そのあたりのことも娘に話して聞かせたのだろう。
「で、蛤がなに?」
「華にも将来良いご縁がありますようにと、願う意味があることを伝えたんです。そうしたら……」
「およめさん、いかない」
華が名無しさんの手を離れ、俺の足元に縋りついてくる。
「いかないっ。やなの」
「……」
「やなのぉ……」
「あー、はいはい」
泣き出す寸前の娘を抱き上げた。
そんなこと、あるとしても何年も先の話だろうに。
きっとその頃にはこの澄んだ涙など忘れて、好いた男のもとへ走ることが幸せになるのだ。
「ちちの、およめさんになる」
「それはお前の母だよ」
「うぅぅ……」
取りつく島なくあしらった俺を見上げて、名無しさんの口元に複雑な笑みが浮かぶ。
生涯を忍として終える父親の腕の中よりも、甲斐性があり、後ろ暗いことは何もなく、清潔で心優しく、この娘を他の何よりも大切にしてくれる頼もしい男に嫁ぐ方が、いいに決まっている。
その方が俺も、安心だ。
そう思うのは確かなのに、心のどこかでは、そんな”何年も先”など永遠に来なければいいとも思ってしまう。
「えー、父上、いじわるだぁ」
「いじわるついでに百世、お前さんにも話あるから、こっち来な」
「……僕、厠寄ってからいくっ」
「あっそ」
百世丸の背中が、小さく素早い足音と共に遠ざかる。
先回りをして、掛け軸裏の証拠隠滅を図るのだろう。
「……やれやれ」
溜息をついた俺の肩に、華の温かな額が擦りつけられていた。