◇◆霧隠才蔵(育児編)◆◇

□桜
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そよぐ春風に花弁が舞う。
ひとひら、またひとひらと、視界を横切り丘の麓へ流されて行く。

こうして幹の根元に腰を下ろし、生き急ぎ咲き誇る桜を見上げるのは嫌いじゃない。


「百世ー、あんまり遠くに行かないでー!」

「わかってるーっ」


花と同じ風に、名無しさんと百世丸の声が運ばれてくる。
百世丸はここに着くや否や、「きのこ探してくるっ」と勇んで駆けていったから、しばらく戻って来られないだろう。


――花見だって言ったんだけど。


名無しさんは走り回る百世丸をはらはらと見守っているようだし、誰も花など見ていない。
一体なんのために来たのかとさえ思ってしまう。


「……で、お前さんは何やってるのさ」


さっきから立てた片膝に、軽いものが幾度も掠めている。
草地に散った桜の花びらをかき集め、華がせっせと俺の膝に盛っているのだ。


「はなびっ」

「花見なら上見れば」

「しゃらららー」

「人の話聞いてる?」


――ま、いいけど。


勝手に遊びを見つけて熱中しているうちは、突飛なことはしない。
ならば一眠りしても構わないかと、目蓋を閉じる。


吹かれた花がこすれ合い、柔らかく仄かに湿った音を立てていた。
夏の青々と茂った葉がなびく音とも、秋風に枯葉が舞うそれとも違う。
この季節ならではの。


――呑気だね、俺も。


自嘲めいた笑みが零れる。
こんな心地で桜を見る日がくるとは思わなかった。

名無しさんがいて、子供達がいて。
未だにこれが現実だと信じられなくなる瞬間がある。


さわさわ、さわさわと。
桜が淡い吐息をついている。







穏やかな夢を見た。
夢なのだとわかる夢、だからこそ覚めたくない。

覚めてしまえば目の前に、色褪せた景色が広がる気がして……


「わーっ! 華、なにやってるの!」


俺の意識を強引に引き戻したのは、慌てふためく名無しさんの声だった。
瞬けば広がる光景は。


「……ほんと、何やってるの」

「大丈夫ですか、才蔵さんっ」


覗き込む名無しさんの顔も半分見えない。
首を振ると頭から目元まで覆っていた大量の花弁が散り、華の嬉しそうな笑い声が上がった。


「うわ、ちちうえ、桜だらけだー」


いつの間に戻っていたのか、百世丸の小さな手に容赦なく髪を叩かれる。
またひとひら、視界の端を花びらが掠めた。

肩にも胸元にも膝にも。


「ちちうえが桜の樹みたい!」

「そんな呑気な事言ってる場合じゃないんだけど」

「あ、才蔵さん、動かないでください。襟から中に入りそうで……」

「しゃらららー」

「華、いい加減怒るよ」


またも埋められそうになって叱りつける。
言ってから、父親然とした響きが自分でおかしくなった。


俺の周りでやかましく騒ぎ立てる三人の向こう。
桜色に染まる緩やかな丘陵は、色褪せなどしない。


「あのね、ちちうえ、きのこ探しに行こっ」

「秋まで帰れなさそうだから無理」

「はなびっ」

「あー、うるさい。上見なって」

「さ、才蔵さん、お団子! お団子ありますよっ」

「……ん」


夢の続きにしては鮮やかな春の香り。
勝手気ままな子供達の声も、必死に宥める名無しさんのそれも。

この身を取り巻く信じ難い現実は、それでも確かに、ここに在った。










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