◇◆霧隠才蔵(育児編)◆◇

□お月見
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月の明るい夜は、任務に向かない。
気配を溶け込ませる闇が少なく、辛うじて身を潜ませたところで濃い影が伸びる。

必然、満月の日は屋敷を空けることが少なく、それは年端もゆかぬ子供達も薄々感づいているようだった。
トタトタと、やや覚束ないながら懸命に駆ける足音が聞こえてくる。


──やれやれ。


浅く溜息を吐き、走らせていた筆を止めた。

月の明るい夜は任務に向かなくとも読み書きには良い日だ。
しかし、それは、年端もゆかぬ子供達には関係のないことらしい。

紙面から筆と墨を遠ざけたところで、障子が遠慮も造作もなく開け放たれる。


「はよーっ」

「おはようじゃない。夜でしょ」


勢いよく飛びつく華を抱き留めた。
文机が僅かに揺れ、筆が転がる。

乱れた髪を梳いてみれば、よほど急いて来たのか僅かに湿っていた。


小さな手が俺の胸元をたんっと叩く。


「おつきみ!」

「後で行くから」

「やっ、いま!」

「……」

「おいでっ」

「おいでって……お前さんが俺に使う言葉じゃないんだけど」


苦い笑いが込み上げる。

この年頃の子供というのは、乾いた土に清水が滲みるように、恐ろしい速さで言葉を吸収してゆく。
耳と口の動きが直結しているとしか思えない。

大方この「おいで」も、俺や名無しさんが子供達を呼ぶときに使うものを真似ているのだろう。


「『来てください』って言ってみな」

「くーらさいっ」

「それは菓子ねだる時」


両手を皿の形にして見せる華の頬を、やんわりつまむ。
弾力のある感触に、無性に団子が食べたくなった。


「ねえ、月見団子、できてた?」

「──できてますよ」


答えは廊下から返ってくる。
百世丸と手分けをして山盛りの団子の大皿を持った名無しさんが、微かに笑いながらこちらを見ていた。


「何を遊んでいるんですか?」

「別に」

「華、遅いぞ! ちちうえ呼んできてって言ったのに」


百世丸は一丁前に叱る。
意識の逸れた手元が傾き、危うく団子が床に撒かれそうになった。

華を片腕に抱いたまま飛び出し、すんでのところで皿を支える。


「ちょっと。落としたら許さないよ」

「わ、ほんとだ。危ない危ない」

「すみません、才蔵さん」


突然の詫びに目を移すと、名無しさんの視線は皿を受ける俺ではなく、文机の上に置かれたままの半分白い紙に注がれていた。

邪魔をして申し訳ない、という意味のようだ。

以前は書き物といえば色恋の指南書ばかりだったが、最近は子供に関する書物を書かされている。
育児指南書とまでは到底言えない、幼子の奇妙な振る舞いや純朴な言動を拾って綴っただけのものが、老若男女問わずなぜかよく売れるらしい。


「書き物をされていたんですね」

「ま、急ぎじゃないけど」


廊下へ出る。
先に立って庭の方へ歩き出すと、足元に百世丸がまとわりついてきた。


「みてみて! これね、僕が全部丸めたんだぁ」

「そ。なら全部くれるんだ」

「違うよ、一個は僕の! 猫の形のやつ」


──猫? どれが?


どれもいびつでよくわからないが、とりあえず「ふうん」と返事をしておく。
温度差のあるやりとりがおかしかったのか、後ろで名無しさんが柔く笑った。


「はなもっ、わんわん!」

「はいはい。犬でも兎でも、好きにしな」

「ちちうえ、うさぎは無いよ」

「へえ。月見なのに」


辿り着いた縁側で足を止める。
陽光よりも鋭利で濁りのない光が、夜に沈みかける草木に皓々と注いでいた。


ふと騒ぐのをやめた華を窺うと、じっと月を見上げるその横顔はひどく静かだ。


庭の隅で鈴虫が鳴く。


腕に抱いている温もりがどこかへ遠ざかる気がして、俺は咄嗟に片手を伸ばした。
名無しさんの皿から団子の串をひとつ取り、華の目の前にかざす。


「同じでしょ。月と」

「おだんご」

「そ。団子」


腰を下ろし、膝に華を座らせる。
隣に百世丸がちょんと座し、その向こうに名無しさんが落ち着いた。


「いっただっきまーす!」


百世丸の情緒のない声。
今はそれに、何となく救われる。

団子を一粒串から外して華に齧らせながら、俺も串に残った方を食む。

いつも、いつまでも変わらない、名無しさんの味だ。


「まだたくさんありますからね」

「ん」


月を見上げながら団子を食べることなど、これまでにも数えきれないほどしてきたのに。


「あった、僕の猫!」

「ふふ。それはさっき、狐って言ってたでしょう?」

「はなもわんわんっ」

「犬は僕もう食べたもん」


静寂の中で眺める冷たい色の物悲しい光より、こうして賑やかな中で遠くに見る月の方が、ずっとよく思える。


「ちちうえ、僕のも食べて!」

「はいはい」

「あ、才蔵さん、お茶をお持ちしますね」

「俺より華が要りそう」

「べたべたおててー」

「なんでさ。いつ触ったの」


主役は団子。月は添え物。
妻や子供達と共の月見なら、この程度が丁度いい。


──新刊の話の種……には、してやらないけど。






ひとつきりだった鈴虫の声が、やがて幾重にも重なって響き始めた。









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