◇◆その他の忍◆◇
□冬の夜長
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己の微かな呼気の音が、口元まで引き上げた巻き布の内に籠る。
静かなものだ。
風の凪ぐ冬の森は生ける者の気配がない。
少し前までこの静寂を不穏に乱していた男達も、何が起こったのかわからぬという眼差しのまま、時を止めてこちらを見上げるばかりだ。
足元の虚ろな眼(まなこ)から視線を外し、朔夜は木々の隙間から僅かに覗く夜空を仰ぐ。
解き放たれた白い息が、見上げた先へ消えていった。
「……」
感慨はない。
達成感もない。
ただ少し、疲れてはいた。
「……冷えるな」
呟く声を自らの耳が捉え、闇に沈む森に呑まれたようだった思考の凪ぎが、微かに揺らいだ。
──どこかで眠りたい。
滅多に抱かない”欲”が生まれる。
忍に感情は必要ないと思っていたはずが……いつからだろう。
感情どころかそれをより濃く煮つめた欲望というものを、持つようになってしまった。
──いや、違う。
持つようになったのではない。
もともと、どこかに潜んでいたのだ。
容易に湧き上がるはずのない場所へ、封じていたに過ぎない。
それを解き放ったのは。
「……っ」
とりとめのない思考が途切れる。背後に気配が生じる。
表層から深層までを瞬時に凪に刷き換え、振り返った。
似ているところが一つも見当たらない、しかし紛れもなく双子である兄が、悪びれた様子もなく木の幹に寄りかかっている。
毒づく言葉が口をついて出た。
「……遅いぞ」
「俺は俺で、やることがあったんだって。お前が思ってるほど、暇じゃねーの」
木から背中を引き剥がした弦夜は、口調ほど軽さを感じない足取りで朔夜の隣に並ぶ。
事切れた男達を見下ろして、ゆっくりとひとつ瞬いた。
「朔」
「……」
「後はやっとくわ。遅刻の借りはこれで無しな」
「いい。始末をつけて里に報告するまで」
「隠せてねえよ」
ついと向けられた視線は鋭い。
剣呑ではなく、見透かす鋭さだ。
「……何のことだ」
怪訝に問う息が、やけに熱い。
反して背筋は粟立った。
唐突な悪寒を堪えた朔夜からふいっと顔を背け、弦夜は億劫そうに追い払う仕草で手を振る。
「じゃーなー」
「おい」
呼び止めた時にはもう、兄の姿は消えている。
転がっていた屍と共に。
──……気付かなかった。
言われてみれば、目の奥が鈍く痛む。
「隠せていない」とは言われたが、今の今まで自覚すらしていなかったのだ。
その程度の不調を、あいつは。
「……」
唇を強く噛むが、その痛みも倦怠感と絡んで重く沈んでしまう。
踵を返した途端、その時を待っていたかのように浮かんだ顔があり、無性に会いたくなった。
甘ったれた己を嘲る余裕も今はない。
小さな吐息をひとつ落とし、地を蹴る。
弱った姿は他人に見せない。
忍として当然のそんな判断すらままならず、作業机で両腕を枕に眠る小さな背中へ引き寄せられた。
作り終えたばかりと思しき薬の壺がいくつも並んでいるところを見れば、疲れ切って褥も敷かずに眠ってしまったのだということは想像に難くない。
だがそれでも、起こしてはならないと思えなかった。むしろ。
──起きてくれ……。
声が聞きたい。
遠慮も容赦も躊躇いもなく、女の体に鉛のような身をもたせかける。
寄せた頬がほんのり温かくなった。
薄い背がぎくりと身じろぐ。
「えっ……?」
「……」
「朔ちゃん!? あの、重……」
「動くな……そのままでいろ」
思惑どおり、目覚めた名無しさんが狼狽えている。
耳の奥をそっと震わせる少し甘い声。
それを聞けたことに満足すると、気が緩んだのか猛烈な眠気に襲われた。
「朔ちゃん、もしかして」
名無しさんがまた何か、言っている。
こちらを振り返ろうとしているらしく、体を預けている背中がもぞもぞ動くので落ち着かない。
仕方なく、朔夜はほっそりとした名無しさんの腰に腕を回して引き倒した。
小さな悲鳴が上がる。
無防備に仰向けになった彼女の胸元へ頭を載せ、心地良さのあまり深く意識もせず頬を擦り寄せた。
「ねえ朔ちゃん、やっぱり熱……」
「最近……」
「何?」
「いや……」
”抱いてないな”。
零しそうになった言葉は、熱に浮かされた頭でもさすがに戯れが過ぎると気付く。
宥めるように髪を梳かれた。
「薬と褥、用意するから。少し起き上がれる?」
「……いらない」
「いらなくないよ。だって全然、いつもの朔ちゃんじゃないし、……ううん、それはいいんだけど、でもそのくらい熱が高いってことだから」
心配と困惑がない交ぜになった声は、耳を押し当てた場所でよく響いている。
いつまで聞いていても構わないとさえ感じた。
「朔ちゃん、お願いだからせめて褥に」
「それ……誘い文句みたいだな」
「えっ」
「気にするな……俺もよく、わからない」
明日の朝になれば、こんな醜態を晒したことを後悔するかもしれない。
相手が名無しさんといえど、二度と無防備に縋るものかと苦い決意を噛みしめるかもしれない。
だが今は、今だけは、枕になっている柔らかな肢体と気だるいまどろみに、全てを委ねてしまいたい。
冬の長い夜が明け、我に返るまでは、まだ十分に時があるのだから──。
了