◇◆尾張◆◇

□湯治の効能
1ページ/6ページ

「明朝、湯治場へ発つ」


信長様が声低く宣言されたのは、木々の新芽も綻び始めた、麗らかな初春の昼下がりだった。

公にどこかへお出掛けになる際は大抵、広間に皆を集めて話をするのだが、人目を忍ぶように私室に呼ばれたのには当然、わけがある。


「……お怪我の具合は」

「ふん、貴様が案じるほどのものではないわ」


信長様は鼻先で笑って、唇の端を歪めた。
その衣の下に隠された左腕にはまだ、癒え切らぬ刀傷が眠っているはずだ。


――私が懸念するほど重くはない、しかし湯治に向かわれた方が良い程度ということか。


三月前。
いつものことながら、誰に知らせもせず城から抜け出した信長様を、数人の賊が襲った。
お顔を見ても信長様とわからぬほどの、流れ者だったようだ。

数の優劣があるうちに唯一太刀が掠めていったという傷は、さほど深くはなかったが。


「あやつ、なまくらを振り回しおって」


今となっては亡骸さえ残っていない賊に向かい、信長様は舌を鳴らす。
手入れ不足の刃を力任せに当てられた傷口は、荒れているぶん治りが遅い。

このことを他国の武将達に知られれば、『大将の弱みこそ好機』と、こぞって攻め込まれかねない。
そこで秘密裏かつ速やかに怪我を癒すため、こうしてお忍びで湯治に向かわれようとしているのだった。


しかし。


「御屋形様」


ひとつ、腑に落ちないことがある。
私は背後に控えたもう一人の気配を気に掛けつつ、名を呼んで伺いを立てた。

途端、信長様の頬が愉快そうに吊り上がる。


「なんだ」

「なにゆえ、名無しさんを連れて行かれるのでしょう」


問いを口にした時にはすでに、察しがついていた。
不敵と愉悦を織り交ぜたこの笑み……完全に、おもしろがっている。


「ただ湯に浸かるだけではつまらなかろう」

「御屋形様っ……」

「はっ、この程度で泡を食うとはらしくないな、光秀」

「……」

「貴様も少しは、面白みのある男になったか」


普段ならば称賛と受け取れる言葉も、今ばかりは受け入れられない。

この際、つまらなくていい。
つまらない男のままで構わないから、私達のことは放っておいてくださらないだろうか。


私と名無しさんの関係に甘やかな変化が訪れてからというもの、信長様にはそれをつつくという妙な楽しみ……いや、もはや悪癖と呼んでも過言ではないものが芽生えてしまっている。


「名無しさん」


信長様が威圧的に”聞こえる”声で呼ぶ。
恐らくその裏に隠された悦には気付いていない名無しさんが、私の後ろで衣擦れの音を立てた。


「はい」

「明朝までに、新たな金平糖は用意できるか」

「……申し訳ございません、金平糖は出来上がるまでに時間がかかりますので」

「出来ぬのだな?」

「はい……」

「と、いうことだ。光秀」

「……」


明日の朝、湯治に発ちたい。
だが旅の供とする金平糖は出来上がらない。
だからそれを作る名無しさん自身を、道中に伴う。

理解できる。……できてしまう。
そうなれば私にはもう、信長様からの命を拒む手はなかった。


努めて表情を押し殺し、低頭する。


「承知致しました」

「……ふん」


返されたひとつの鼻息は、先程よりいささか不機嫌そうだ。
もう少し私がごねると思ったらしい。


――そうさせていただきたいのは、山々ですが。


密かに噛みしめた苦い笑みを、心中に留めて堪える。
いくら抵抗したところで結果は変わらないのだろうし、ならば少しでも出立までの猶予を持たせて、名無しさんに万全な旅支度を整えさせたかった。







翌早朝。
朝靄に覆われた城の裏門には、信長様と、今回付き従うことになった利家、秀吉の姿がある。

私は名無しさんを呼び寄せ、信長様の馬の用意を手伝わせる振りをしながら、小声で促した。


「困ったことがあれば必ず、秀吉を頼るのですよ」

「ふふ……はい」


名無しさんが笑ったのは、私が昨晩から何度も同じことを言い聞かせているためだろう。
極秘の旅ゆえ、敵方につけ狙われるような危険はないはずだから、困ることがあるとすれば御屋形様のやや強引な命令だ。

そのあたりに対処する機微は、利家よりも秀吉の方が心得ている。
いざとなった時、真っ先に身を挺して名無しさんを守るのは、利家かもしれないが。


「――光秀」


振り返ると、眉間に浅い皺を刻んだ信長様が歩み寄ってくるところだった。


「……務めを果たせ」

「はっ」


そうだ。
信長様の不在を悟られぬよう、城内の安泰を保つこと。

それが今の私の務めだった。
次へ  

[戻る]
[TOPへ]

[しおり]






カスタマイズ