◇◆尾張◆◇
□湯治の効能
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「明朝、湯治場へ発つ」
信長様が声低く宣言されたのは、木々の新芽も綻び始めた、麗らかな初春の昼下がりだった。
公にどこかへお出掛けになる際は大抵、広間に皆を集めて話をするのだが、人目を忍ぶように私室に呼ばれたのには当然、わけがある。
「……お怪我の具合は」
「ふん、貴様が案じるほどのものではないわ」
信長様は鼻先で笑って、唇の端を歪めた。
その衣の下に隠された左腕にはまだ、癒え切らぬ刀傷が眠っているはずだ。
――私が懸念するほど重くはない、しかし湯治に向かわれた方が良い程度ということか。
三月前。
いつものことながら、誰に知らせもせず城から抜け出した信長様を、数人の賊が襲った。
お顔を見ても信長様とわからぬほどの、流れ者だったようだ。
数の優劣があるうちに唯一太刀が掠めていったという傷は、さほど深くはなかったが。
「あやつ、なまくらを振り回しおって」
今となっては亡骸さえ残っていない賊に向かい、信長様は舌を鳴らす。
手入れ不足の刃を力任せに当てられた傷口は、荒れているぶん治りが遅い。
このことを他国の武将達に知られれば、『大将の弱みこそ好機』と、こぞって攻め込まれかねない。
そこで秘密裏かつ速やかに怪我を癒すため、こうしてお忍びで湯治に向かわれようとしているのだった。
しかし。
「御屋形様」
ひとつ、腑に落ちないことがある。
私は背後に控えたもう一人の気配を気に掛けつつ、名を呼んで伺いを立てた。
途端、信長様の頬が愉快そうに吊り上がる。
「なんだ」
「なにゆえ、名無しさんを連れて行かれるのでしょう」
問いを口にした時にはすでに、察しがついていた。
不敵と愉悦を織り交ぜたこの笑み……完全に、おもしろがっている。
「ただ湯に浸かるだけではつまらなかろう」
「御屋形様っ……」
「はっ、この程度で泡を食うとはらしくないな、光秀」
「……」
「貴様も少しは、面白みのある男になったか」
普段ならば称賛と受け取れる言葉も、今ばかりは受け入れられない。
この際、つまらなくていい。
つまらない男のままで構わないから、私達のことは放っておいてくださらないだろうか。
私と名無しさんの関係に甘やかな変化が訪れてからというもの、信長様にはそれをつつくという妙な楽しみ……いや、もはや悪癖と呼んでも過言ではないものが芽生えてしまっている。
「名無しさん」
信長様が威圧的に”聞こえる”声で呼ぶ。
恐らくその裏に隠された悦には気付いていない名無しさんが、私の後ろで衣擦れの音を立てた。
「はい」
「明朝までに、新たな金平糖は用意できるか」
「……申し訳ございません、金平糖は出来上がるまでに時間がかかりますので」
「出来ぬのだな?」
「はい……」
「と、いうことだ。光秀」
「……」
明日の朝、湯治に発ちたい。
だが旅の供とする金平糖は出来上がらない。
だからそれを作る名無しさん自身を、道中に伴う。
理解できる。……できてしまう。
そうなれば私にはもう、信長様からの命を拒む手はなかった。
努めて表情を押し殺し、低頭する。
「承知致しました」
「……ふん」
返されたひとつの鼻息は、先程よりいささか不機嫌そうだ。
もう少し私がごねると思ったらしい。
――そうさせていただきたいのは、山々ですが。
密かに噛みしめた苦い笑みを、心中に留めて堪える。
いくら抵抗したところで結果は変わらないのだろうし、ならば少しでも出立までの猶予を持たせて、名無しさんに万全な旅支度を整えさせたかった。
翌早朝。
朝靄に覆われた城の裏門には、信長様と、今回付き従うことになった利家、秀吉の姿がある。
私は名無しさんを呼び寄せ、信長様の馬の用意を手伝わせる振りをしながら、小声で促した。
「困ったことがあれば必ず、秀吉を頼るのですよ」
「ふふ……はい」
名無しさんが笑ったのは、私が昨晩から何度も同じことを言い聞かせているためだろう。
極秘の旅ゆえ、敵方につけ狙われるような危険はないはずだから、困ることがあるとすれば御屋形様のやや強引な命令だ。
そのあたりに対処する機微は、利家よりも秀吉の方が心得ている。
いざとなった時、真っ先に身を挺して名無しさんを守るのは、利家かもしれないが。
「――光秀」
振り返ると、眉間に浅い皺を刻んだ信長様が歩み寄ってくるところだった。
「……務めを果たせ」
「はっ」
そうだ。
信長様の不在を悟られぬよう、城内の安泰を保つこと。
それが今の私の務めだった。