◇◆その他の殿子育て編◆◇

□小虎とみかん
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紅蓮に瞬くつぶらな瞳が、背後から目の前に回された指先の、ぎこちない動きをじっと見つめている。

その我慢強さにつられて、私も信玄様の手元を見守りながら固唾を飲んでいた。
ぽたっと、筋張った手首から滴が落ちる。

一滴、また一滴。


「……晴信」


畳の染みが三つを数えたところで、妙な緊迫感のある静けさは破られた。


「名無しさんさんに頼むべきだ」

「急かすな、勘助」


信玄様が濃厚な溜息をつく。
広い胡坐の中に収まっていた小さな体が、何かに煽られたようにゆさゆさと揺れた。


「ほら見ろ、お前のせいで虎坊も焦れちまったじゃねえか」

「晴信の指はみかんの薄皮剥きに向いていない」

「俺の指は普通だろう。みかんが小せえんだ」

「ふふっ」


困ったように眉尻を下げる信玄様がおかしくて、つい笑ってしまう。
連なりから剥がされた一粒のみかんは、太く長い指の先で既に原形を失っていた。

半透明な皮と潰れた実の区別がつかなくなったそれを、信玄様は仕方なくご自分の口に運ぶ。

行方を追って見上げた虎坊から、高い不満の声が上がった。


「きゃーぁっ」

「わかってる。まだあるから、心配するな」

「きゃーっ」

「誰に似てせっかちなんだ、お前は」

「晴信が待たせすぎだ」

「でも薄皮剥きは、案外難しいですよね。……はい虎坊、こっち」


私は微笑ましい言い合いの隙に用意したみかんの粒を、さらに半分にして小さな唇に差し入れる。
口元が味わうようにゆっくり動いて、ふくふくとした頬が綻んだ。


「おいしいね。『小虎に』って、幸村様がくださったんだよ」

「あいつはまだ、その呼び方をやめてなかったのか」


苦笑が降ってくる。

虎坊には、”虎之進”という立派な名前があるけれど、普段からそう呼ぶのは勘助様と才蔵さんだけだ。

名付けた信玄様さえ大事な話をする時以外は、虎坊、虎坊と呼んでいて、私にもいつからかそれがうつってしまった。
他の皆さんは幸村様につられて、”小虎”と呼び可愛がってくれている。


「私は”小虎”も、愛らしくて好きですよ」

「小せえ男になったら困るだろうが」


そう言う信玄様も、我が子が家族同然の家臣の皆さんに愛されているのは嬉しいようで、結局『最初の二年だけだ』という条件付きで、許してしまうのだ。


「……しかし、みかんがこうも食い辛えもんだったとはな」

「ふふ、信玄様はいつも、一口で済んでしまいますから」

「そりゃあ……待て虎、こいつはまだ剥いてねえ」

「あーっ」

「早くしろって催促か? はっ、文句はもう一人前だな」


からりと笑った信玄様は、私の方に”頼む”という眼差しを向けると、手拭いでみかんの汁を清めた。
不満を露わにのけ反った虎坊を座り直らせ、宥めるようにぽんと頭を撫でると。


「んっ」

「おっと、悪い」


せっかく正しい場所に落ち着いた体が、信玄様の胡坐の中にすとんと沈んだ。


「ふ、ふぇ……っ」

「悪かった悪かった、未だにお前への加減は慣れねえな」


べそをかきかけた虎坊を抱き上げ、大きな手のひらがその背中を優しく摩(さす)る。
信玄様は私と目が合うと苦笑いを浮かべ、「壊しちまいそうだ」と珍しく弱音を吐いた。

私は微かに頬を緩め、皮を剥いたみかんの一欠けを虎坊の口元に、もう一欠けを信玄様に差し出す。


「大丈夫です、この子は信玄様の子ですから」

「そういうもんか」

「それに虎坊はきっと、毎日少しずつ強くなってくれています」

「ははっ、なるほどな。いつまで経っても柔らけぇこいつの薄皮剥きよりは、早く馴染んでやれそうだ」

「はい!」


努めて明るく頷くと、私の指先ごと果肉を啄んだ信玄様に、片腕でぐいと引き寄せられた。
広い胸元で、驚き顔の虎坊と目が合う。

お腹の奥まで響く深い声が鼓膜を震わせた。


「お前はどれだけ経っても、いい女だ」

「信玄様……」

「いい妻で、いい母親だ。そうだろう、虎坊」

「ちゃっ」

「なんだその、ちゃ、ってのは」

「ふふっ」


勘助様がそっと部屋を出て行くのが見える。

慈しみが籠った腕に包まれながら、私は強かで柔らかな、二人分の温もりを感じていた。







幸村「小虎は無事みかんにありつけただろうか…」
才蔵「信玄さんは”御屋形様”なのに、その息子は”小虎”でいいんだ?」
幸村「はっ! 小虎様か!?」
才蔵「変」

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