◇◆霧隠才蔵(大正時代編)◆◇

□忍ぶ恋
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群青の海原に、潮風を受けて銀の帯が煌く。
視界を遮るものはない。

時折光景を荒立たせるとすれば、群れる海鳥のはばたきの下で、白銀の体躯をひらめかせた小魚が飛沫を上げる、その程度だ。

こうして艦首に立ち水平線の果てまで続く空と海の深い青を眺めていると、まるで自分が大洋の真ん中にひとり、佇んでいるような錯覚に陥る。

この広大な海のどこが、自分の墓場になるのか。
しばらく前まではそんな殺伐とした感慨に耽ることもあったが……今は。


――なんで、こんなところに居るんだろうね。


これまで頭の片隅にも浮かばなかった疑問が、詰め込まれた真綿のように思考の全きを満たしている。


ふと、全身を覆う潮の香りの中に、あるはずのない熱いコーヒーを嗅いだ。
てらりと光る作り物めいた木の匂いと、濃いライスカレーのそれも。

脳裏をよぎるあの場所は雑多な香りに溢れている。
それが特別好ましいとは思わないが、不思議と懐かしい。


「――少佐」


低く呼ばれた。
一拍、溜息を殺す間を取って振り返る。

途端に真っ青だった視野がくすんだ鉄の色に塗り替えられ、香しい幻想の風も重く淀む。


「……なに」

「電報です」


差し出された紙片が海風に靡く。
攫われる前にかすめ取り、一瞥した。


「……」

「……少佐」

「進路フタナナマル。本隊と合流する」

「御意」


指示を受けた相手の白い皮手袋が空を切って上がり、眉尻の横でぴたりと止まる。
同様に手を上げ答礼をしながら、俺は口の中でぼやいた。


「やめなよね、その返事」


足早に去る背を見送り、目線の先にそびえ立つ帆を仰ぐ。


……本土はまだ、遠い。



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今日最後のお客様を見送って、入口のガラス戸に引っ掛けた札を裏返す。
『閉店』の字を向けた表通りは西日に染まり、丁度停車した電車からぞろぞろと人が降りてきた。

線路を横切る人々に、待ち構えていた人力車の引き手が親し気に声を掛けている。

いつもの夕暮れ。
私はその景色に背を向けて、真正面の突き当たり、お店の中で一番目立つ特等席へ据えている蓄音機に歩み寄った。
針を上げると途端に陽気な歌声が途絶え、無性に心もとない気分になる。

コツコツと時を刻む柱時計の音が、やけに大きく響く。


「――名無しさん?」


カウンターの向こうでせっせと洗い物をしていたお母さんから、訝し気な声がかかった。


「そこのカップ、下げてくれる?」

「うん、今持って行く」


数年前に他界したお父さんが残してくれた、この小さなカフェー。
辺りに石造りの立派な建物がずいぶん増えた中で、瓦屋根に木造のこぢんまりとした佇まいは呑み込まれかけている。

それでも、ほんの少し見栄を張った出窓と、橙色の灯りを弾く丸テーブルを備えた内観は洋装。
どこかちぐはぐな店構えが、私は気に入っていた。

ここをお母さんと二人で支えながら、弟の弥彦の学費と家族三人の生活をやりくりしている。


「後の片付けはやっておくから。あんたは先に休みなさい」

「そうする。ありがとう」


明日は私が朝の仕込みの当番だ。
お母さんの申し出に甘えることにして、エプロンを外す。


所々軋む階段を上がって自室へ戻り、こもった空気を入れ換えようと窓を開けた。

裏路地に面しているこの部屋は、表の喧噪からやや遠く、往来で巻き上がる砂埃もあまり入って来ない。
風に当たりながら心置きなく物思いに耽ることができる、格好の場所だ。


その場に座り込み、見上げた茜の空は狭い。
背の高い隣の建物の石壁に切り取られたそこを、薄い雲がゆったりと横切る。


――あの人は今、どこにいるんだろう。


以前顔を見たのは二月ほど前だ。
いつだって突然現れて、少し眉を顰めながら一杯のコーヒーを飲み、戯れの会話を交わして立ち去る人。


「……才蔵さん」


ぽつりと呟いた名が、黄昏に溶けて消えてゆく。






私が才蔵さんに出会ったのは、もう十年以上前のことらしい。
当時の私はまだ幼く、事の詳細はよく覚えていないけれど、カフェーの席が軍服の男達で埋め尽くされていた様子だけは、なんとなく記憶にある。


お父さんはその昔……私が生まれて間もない頃、海軍の炊事兵だった。
もとより得手だった料理の腕前を買われて軍艦の炊事場を預かり、病に倒れて船を降りることになった時も、大層惜しまれたという。


十数年前のあの夜、この店に集った軍人さん達は皆、お父さんの手料理を懐かしんだ当時の仲間だったようだ。
人が行き交うこの一等地に小さな店が生き残っているのも、見えぬところで海軍の後ろ盾があるからだとか。

……そのあたりの事情は、私もまだ、お母さんから聞けていない。


とにかくその時の集いに、上官に連れられた才蔵さんも混ざっていたそうだ。


ただ、私が覚えている彼との初対面はずっと新しい。


お父さんが病で他界して半年ほど経ったある日。
ようやくお母さんと二人で店を切り盛りできるようになり始めた矢先だった。


「おーおー、小洒落たところじゃねえか」


突然、店内に千鳥足の男が上がり込んできたのだ。
閉店間際とはいえまだ数人のお客様が残っていて、入口の近くで空いたテーブルを片付けていた私は、咄嗟に男の前に立ち塞がった。

舌打ちをした男から強い酒の臭いが漂う。


「……なんだよ、客に酒の一杯も出さねえってのか」

「うちではお酒は出しませんから」

「あ? んな店があるか」

「――うるさいね」


隅の席から声が上がった。
それまでは、珍しく礼装の軍人さんがいらっしゃっている、という程度にしか思っていなかったのだけれど。

その人は内に熱を秘めた緋色の瞳で、男を鋭く一瞥した。
テーブルにコーヒー代の硬貨を置いて立ち上がり、ものの数歩で私と男の間に立つ。

視界が黒い軍服の背に覆われ、私からはうまく状況を見ることができなくなったものの、コツン、と床を打ったのが革靴ばかりではないことはわかった。
漆塗りの軍刀を長身の前に立てた軍人さんは、無造作に言い放つ。


「邪魔なんだけど」

「はっ、そんな飾りモン、脅しの道具にもならねえな」

「へえ……」


気の無い呟きが聞こえた次の瞬間、ビュッと重い物が空を裂いた音がする。
広い背中の後ろからそっと覗けば、男の首の寸前で刀の鞘が止まっていた。


「なら試す? これが飾りかどうか」


あまりにも手慣れた所作で軍刀を操っていた彼が、もはや言うまでもなく――才蔵さんだった。
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