◇◆片倉小十郎◆◇
□Happy-Valentine(殿目線)
1ページ/5ページ
早朝の国道は広い。
あと二時間もすれば人や車の往来で忙しなく動き出す街も、今はまだじっと息を潜めている。
時が止まったような作り物めいた景観の中、通り沿いのショーウィンドウのぎらつきだけが妙に浮いて見えた。
車のガラス越しに赤と茶色の残像が飛び去って行く。
カーオーディオを震わせていた穏やかなジャズサックスの音色が萎んで途切れ、安っぽいBGMのイントロが流れ始める。
直後、おもちゃのような女の声が響いた。
『――全国の皆さん、おはようございます! 二月十四日、今日はー? そう、バレンタインです!』
「……」
ぐっと眉間に力が入り、前方を見たまま片手で音量を絞る。
それでも朝から元気過ぎるその声は、しぶとく鼓膜に突き刺さった。
『バレンタインといえば、チョコレートですよね! 男の子も女の子もドキドキわくわく、今日のことを考えすぎて寝れなかったよー、なんて方はいらっしゃいませんか?』
「……はぁ」
知らず溜息が漏れている。
バレンタイン、チョコレートと聞いても残念ながら、煩わしい思い出しか浮かばない。
行く先の信号が赤になる。
誰も渡らない横断歩道の待ち時間を無駄に持て余し、ラジオの局を散々探ったものの、どこもかしこも浮かれ放題だ。
唯一流れてきたクラシックは気分に合わず、諦めてオーディオの電源を切る。
――バレンタイン、か。
気を紛らわせるものがなくなり、思考が引きずられた。
窓枠に頬杖をつき、ハートまみれの街中を眺める。
――そうやって世間が騒ぐから、一年で一番厄介な日になるんだ。
今日は絶対に、いつもの出社時間では業務が追いつかない。
毎年この日は女性社員からの贈り物を受け取るだけで、かなりの時間を潰されてしまう。
だからこうして睡眠を削り、誰も来ないような早朝に出勤して、仕事を進めておかなければならないのだ。
寝不足の理由がドキドキわくわくなんて、能天気にもほどがある。
……と、ひたすら憂鬱な日のはずだった。去年までは。
「はぁ……どうして休みじゃないんだ」
今年はいつもの憂鬱さに、少しばかりもどかしさが含まれている。
ここまで騒ぐのなら、いっそ祝日にでもしてしまえばいいのに。
そうすれば何にも煩わされることなく、付き合い始めて最初のバレンタインを、可愛くて仕方がない恋人と過ごせていた。
――週末までお預けだな。
奥州ホールディングス株式会社の副社長である俺と、社長の政宗様の秘書を務める名無しさん名無しさん。
職場では私的な関係を公にできないぶん、休みの日に恋人としての時間を満喫することが、暗黙の了解になっている。
例によって今度の週末も何か約束をしたわけではないが、こんなイベントがあった週の休みが、特別なものにならないはずがない。いや、当然特別なものにするつもりだった。
そのための用意も密かに済ませている。
「週末は名無しさんとバレンタイン、週末は名無しさんとバレンタイン……」
自らに暗示をかけるように呟く。
それだけで胸の奥がくすぐったくなり、衰えていた気力が徐々に蘇った。
――うん、大丈夫だ。頑張れる。
頬杖を解く。目の前の信号が青に変わる。
怒涛の二月十四日を乗り越えるべく、俺は静かにアクセルを踏み込んだ。
だが結果として、そんな幸せな暗示を掛ける余裕は朝の数時間で失われた。
午前の重役会議を終え、個別のちょっとした雑談や打ち合わせにざわつき始めた会議室。
その中で唯一、誰と言葉を交わすでもなく淡々と立ち上がった政宗様を、俺はやんわり押し留めた。
「少々、こちらでお待ちください」
「……? 何故だ」
才気煥発、容姿端麗な若き社長を、世の女性達が大人しく見守ってくれるはずがない。
しかし当の政宗様は女性を苦手としていた。
「今外へ出られては、恐らく囲まれてしまいますので」
会議室の外には、出待ちの長い列ができているだろう。
容易に想像できる廊下の状況を遠まわしに伝えてから、日々ご多忙な政宗様は、そもそもバレンタインをお忘れになっているかもしれないと気付く。
これでは真意が伝わらないかと思ったが、意外にもさほど間を置かず、小さな苦笑が返ってきた。
「ああ……そういえば今朝、名無しさんも言っていたか」
「名無しさんが?」
まさか、「本日の予定はバレンタインです」と伝えたわけではないだろうが。
今は詳細を尋ねるよりも、政宗様が速やかに社長室へ戻れるようにすることが優先の務めだ。
俺自身に贈られるものばかりではなく、政宗様への贈り物も盾となって受け取る。
それが毎年のバレンタインの、俺の役目だった。
「私が出てから五分ほど、お時間を空けていただいてもよろしいでしょうか」
「わかった。そうしよう」
再び席に腰を落ち着ける政宗様に一礼をし、会議室の扉へ向かう。
ノブを掴み、間髪入れずに開け放った。
途端、悲鳴じみた歓声が脳天まで突き抜ける。
背後で一瞬会議室の空気が凍った気もしたが、確かめる暇もなく後手に扉を閉めて、温度差が著しい空気を遮断した。
荒波のように女性社員達が押し寄せてくる。立ち止まれば動けなくなると、経験から知っていた。
「小十郎様ー! 受け取ってくださいっ!」
「私の!! 私の気持ちも受け取ってください!」
「押さないでよ!! 私が先よ!」
「きゃー!!」
言葉を返すとか手荒な真似はしないとか、そんな配慮ができるような状況ではない。
一応俺もれっきとした男で、体格にも恵まれている方だ。
しかしいくら女性が相手でも、四十人も五十人も束になってかかられてはそう敵わない。生半可な覚悟で当たればこちらが潰される。
「……」
一歩一歩床を踏みしめつつ、四方八方から突き出される眩しい包みを手あたり次第に回収していく。
手提げ袋が目につけばすかさず掠め取って、腕から零れ落ちそうな箱をまとめて突っ込む。
――仕事だ。……これは、仕事だ。
今朝方の甘い暗示が、今ではもう色気のない即物的なそれに変わっている。
辛うじて眉間に皺を寄せることは堪え、なけなしの危機管理として倒れる社員が居ないかということだけに気を配りながら、廊下を歩くことおよそ二十メートル。
最後のひとつを受け取ってもまだしつこくついて来る社員にはさすがに付き合いきれず、「早く仕事に戻りなさい」と一言叱責を加えて。
ようやく辺りが静まり返った時には、スーツの袖口のボタンが二つ、失われていた。