◇◆樋口与七◆◇
□恋の結い紐
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あっ、と思った時には遅かった。
――バリンッ!
余韻なく突き放されるような音が耳に刺さる。
足元で砕け散った陶器の大皿を前に、私は束の間息を詰めた。
我に返ってその場にしゃがみかけると、手にした盆の上に無事残っていた器まで滑る気配があって、また慌てる。
とにかくそれ以上壊してしまわないように盆を廊下の端へ置いた時、背後から突然声がかかった。
「名無しさん?」
「あ……」
振り返れば、澄んだ杏子色の瞳を軽く見開いた与七くんに見下ろされている。
私は気が動転したままそちらに背を向けて、大皿の残骸を片付け始めた。
「お、落としちゃって。ごめんなさい、すぐに片付けるから」
「えっ、待って、手で触ったら」
その制止が聞こえたのと指先にびりっと痛みが走ったのは同時だった。
思わず手を跳ね上げてしまう。
「いたっ……」
「切れた? 見せて」
いつも無邪気で穏やかな与七くんらしくない、強引な力が私の肩を掴んだ。
くるりと体を返された拍子に、右手の薬指を生温かいものが伝ったのがわかる。
「うわー……ちょっと深いね」
与七くんの顔が痛そうに歪んだ。
怪我をしたのは私で、しかも自業自得なのに、まるで自分のことのように共感してくれる。
割れたお皿よりも真っ先に怪我の心配をしてくれたことも嬉しくて、私が少しだけ泣きそうになっていると、ふいに指先をざらりとした感触が掠めた。
一瞬、閃光にも似た痛みが走る。
「んっ」
「ごめん、痛かったね」
血を舐め取り、口付けるように傷を軽く吸った与七くんが、唇から私の指先を離す。
こんなことは小さい頃お母さんがしてくれたきりで、まして殿方にされたことなんかない。
予想外の出来事に茫然としているうち、傷口からまたふわりと鮮やかな紅が盛り上がる。
「止まらないかぁ」
与七くんはもう一度だけ血を舐め取ると、片手で私の手首を支えたまま、もう片方の手を自分の後頭部に回した。
ぱさっ、と乾いた響きがある。
瞳より僅かに陰った色の髪が、広い肩口へ落ちた。
「与七くん……」
「少しだけこのままにしておくんだよ。きついかもしれないけど」
「……」
「あれ、名無しさん? 聞いてる?」
覗き込まれて、息を飲んだ。
いつもの与七くんじゃない。
この状況に切迫した表情のせいもあるだろうけれど、癖のない少し長めの髪を下ろした姿は、それを束ねている時よりも不思議と男らしい。
中性的な美貌を持つ謙信様とはまた違った、凛々しい美しさがある。
「朦朧とするほど血は出てないはずなんだけど……」
「あっ……だ、大丈夫っ」
目の前で首を傾げる仕草がやけに艶っぽく見え、慌てて距離を取ろうとした背中に、ぱっと強い腕が回った。
「駄目! また怪我しちゃうって」
「そうだった……」
「なんか今日の名無しさんは危なっかしいな」
心配そうに眉を寄せた与七くんの、大人びた雰囲気はまだ見慣れない。
頬が熱くなるのを感じながらそっと伏せた目に、深い群青色が飛び込んで来た。
「えっ、これって」
「使ってたもので悪いんだけど、今はそれしかなくて」
怪我をした薬指の付け根に髪紐が結ばれている。
意識すれば少し苦しいくらいの強さで、傷から溢れていた血はもう滲むほどになっていた。
「ありがとう……」
「いいよ。それより片付けないと。箒持ってきてくれる? その間僕がここを見てるから」
「うん……」
確かに素手では処理しきれないし、ここを放置して掃除道具を取りに行くわけにはいかない。
今は与七くんの提案に甘えることにして、私はまだ逸る胸を押さえつつ、一旦その場を離れた。