山椒魚

□序章
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no side


時刻は深夜十一時。

紅い髪の男、織田作之助は行き付けの酒場に来ていた。
理由は特にない。・・・しいて云うなら、彼は誰かに呼ばれたような気がしたからである。
それにしても・・・。と彼は少しだけ考える。
その"呼ばれた"、というのはあながち間違いではないらしい。

彼のその予感めいたものが美事(みごと)(あた)ったと判ったのは、いつものカウンター席に太宰が座って酒を眺めていたからだ。
織田作に気が付いたらしい太宰は、彼を視界に留めると嬉しそうに彼を呼んだ。


「やァ、織田作」


その呼びかけに織田作は手を掲げて返事をし、太宰の横に座った。
しかし、彼はその横に普段とは違う、云うなれば違和感のようなものを感じ取る。

ふと視線を向けると艶やかな黒が揺れた。その黒は瓦斯灯(ガスランプ)の光を存分に吸収している。
・・・そこにいたのは、息を呑むような美しい女性。
小柄、というよりは華奢なその人は雪のように白い肌が相まって儚げな印象を与えている。
一見少女のようにも見え、しかし纏う雰囲気は彼等以上に老成しているようにも思えた。
その不思議な雰囲気に、織田作はついつい見惚れてしまっていた。

すると不躾な視線に気が付いたのだろうか、その人は流れるような無駄のない動きで彼の居る方向へ顔を向ける。
それから数秒後、まるで華が咲くように微笑んで見せた。


「・・・君が太宰君の友人の織田作之助君?」


その声はどこか涼やかで凛としており、聞き取りやすい。

突然話し掛けられた織田作は、不覚にも固まってしまった。
この時点で彼が判ったことといえば、目の前の美しい女性は太宰の知り合いらしい、ということだったが、この問題の原因であろう太宰は固まった織田作を見てただただ笑っただけである。


「あはははっ、何だい織田作。鱒二さんを見て固まっちゃうなんて!!」


彼はその後に、確かに鱒二さんは美人だけど、と続ける。


「こら、太宰君。・・・えっと、何かごめんね織田君」


「あぁいや、気にしないでくれ」


隠すことなく堂々と笑う太宰を"彼女"は優しく諫める。その眼はまるで、自分の子供を宥めているようで・・・。
織田作はつい(くび)を傾げた。


「然し太宰の知り合いにこんな美人がいるとは・・・。恋人か何かか?」


彼のこの発言には太宰も"彼女"も飲んでいた酒を勢いよく噴き出した。
自分はそんなに可笑しいことを云っただろうか?と、織田作は不思議そうな顔だ。


「ゲホッ、ゴホッ・・・これ、何か勘違いされてるよね?」


「織田作って本当に非道い冗談を云うね。・・・本当に恋人だったらどれだけ嬉しいことか」


太宰はそう呟くように云うと、一つ咳払いをして織田作の方へ躰を向ける。
彼はいつもよりも真剣な顔をしていた。織田作はそれを見て心底珍しいと思った。


「取り敢えず紹介するよ。この人は井伏鱒二さん。私達と同じポートマフィアの一員で、私の師匠だよ」


「・・・・・・師匠?」


「そう、師匠」


彼は随分驚いたらしい。

太宰の師匠ということは、それなりの年齢と地位を持っているのだろう。
だがその驚きとは逆に、あのどこか老成した雰囲気も矢張り間違いではなかったのだ、と妙に納得もしてしまった。良く良く考えてみれば、話し方や雰囲気が似ている気もする。


「自己紹介もせずに、突然話しかけてしまってごめんなさい。君の話は良く太宰君から聞いていたから、つい・・・」


「そんなに気にしなくても大丈夫だ。・・・それにしても、女性なのにマフィアなんて大変だな」


「・・・あぁ、その誤解もあったのか」


鱒二が余りにもしょげた顔で云うので、織田作も自然と補助(フォロー)が出来た。だが"彼女"は女性という言葉に遠い目をする。
疑問に思った彼は太宰の方を見たが太宰は自分の仕事は終わった、と酒を煽っている。
織田作が困惑していると、"彼女"は少し云い辛そうに口を開いた。


「何というか、騙しているようで申し訳ないんだけど・・・私は男なんだ。」


「は・・・?」


こんなにも美しい人が自分達と同じ男?

現在、彼の脳は容量越え状態であった。


「・・・そうか、勘違いしていたようで済まない」


「大丈夫、こんなの日常茶飯事だから」


織田作の無理矢理捻り出したような声に、鱒二は若干虚ろな目で呟くようにいう。きっと疲れているのだろう。

彼は手っ取り早く話を変えるために、太宰の怪我について聞くことにした。恐らく酸鼻極まる殺し合いの結果なのだろう、と思いながら。


「で?お前のその脚の怪我の理由は?」


「『不注意の事故をしないために』っていう本を歩きながら読んでいたら、排水溝に落ちた」


それは彼の予想に反して意外と適当な理由だ。


「ではその腕の怪我は?」


「車で峠をぶっ飛ばしていたら崖から落ちた」


「ではその額の包帯は?」


「『豆腐の角で頭をぶつけて死ぬ』という自殺方を試した」


織田作は驚いたように目を丸くする。柔らかい豆腐で怪我をするなんて絶望的なカルシウム不足だ。

彼の考えていることが判ったのだろうか、鱒二は小さく笑いながら補足をした。


「とは云っても、本当のお豆腐で怪我をしたわけではなくてね。太宰君が独自の製法で釘を打てるくらいに固くしたらしいんだよ」


「・・・その豆腐はうまいのか?」


「悔しい事に。薄く切って醤油で食べると、ものすごくおいしい」


顔を顰めて不本意そうな太宰に、織田作は感心して頷く。


「うまいのか・・・・・・。今度食べさせてくれ」


鱒二はというと2人の会話に忍び笑いを零しながらも、静かに、けれどもどこか楽しそうに眺めていた。


「織田作さん・・・・・・今のそれ、突っ込む所ですよ」


突然入り口の方から声が聞こえる。

振り返ると、学者風の青年が階段を降りてくる所だった。





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