短編集
□お前が、貴方がいたから。
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「麻樹。」
日本シリーズ第6戦の試合後、最後にベンチから出た私を待っていたのは、トレーナーでも、新聞記者の人でもなかった。
私を待っていたのは、なんと黒田さんだった。
セレモニーの時は離れたところに並んでいたから、まじまじと顔を合わせたのはこの時が今日初めて。
「…よぉ頑張ったな。」
そう言って、いつものように頭をくしゃくしゃと撫でてくれた。
背負っていたものが無くなり、全てが吹っ切れて晴れ晴れとした表情。
今まで見たことのない、優しい顔をしていた。
「黒田さんーー…。」
その瞬間、今までずっと我慢していたものが一気に溢れ出た。
周りにカメラマンや新聞記者の人たちがビックリしているのが分かっていたけど、関係なかった。
涙が止まらなかった。
悲しいのと悔しいのと、でも黒田さんが笑顔で嬉しいのと…。
いろんな想いがあり過ぎて、頭がぐちゃぐちゃだ。
「いっつも絶対に泣かへんのに。」
それを見た黒田さんは、あほか。といつものように言って笑う。
「泣くに決まってるじゃないですか…。てか、黒田さんが泣かせたんですよ……。」
くしゃくしゃと撫でてくれる右手は、わたしの大好きないつもの大きな暖かい手。
世界を舞台に戦い続けた、立派な手。
この手で今までどれだけ多くの人々を魅了してきただろうか。
「なんや俺のせいか。」
涙が次々と溢れてきて、しっかりと前が見えない。
でも何となく分かるのは、黒田さんが笑顔だという事。
私の大好きな優しい笑顔。
私を助けてくれた、暖かい笑顔。
……もう、見れないかもしれない。
そう考えたら、今までの黒田さんとの思い出が走馬灯のように頭の中を駆け巡る。
「……もっと一緒にいたかった。」
ついポロリと出た本音。
自分でもビックリした、でもそれ以上に驚いたのは黒田さん。
一瞬驚いた顔をした。でも直ぐに照れ笑い。
ぐっと頭を引き寄せられて、私はそのまま黒田さんの胸に飛び込んだような形に。
驚いた。黒田さんはこんな事を絶対にしない人だったから。
吸った息いっぱいに感じる黒田さんの匂い。
改めて思った、この人が好きなんだと。
「……お前と一緒に野球が出来て、俺は幸せやったわ。」
何てこと言うんですか。
それはこっちの台詞です。
あなたと出会えて、あなたと一緒に野球が出来た事。
大好きな人と一緒の時間を過ごせた事。
私にとってそれは誇りです。
(黒田目線)
自分でも驚いた。
身体が勝手に動くとはこの事か。
「……もっと一緒にいたかった。」
耳を疑った。
でも確かに麻樹はそう言った。
ほんまにこいつはあほや。
こんな時でも俺を振り回してくれる。
それを聞いた途端、一気に歯止めが利かへんなった。
近くにカメラマン、記者がいる事は分かっとった。
でも今はもうそんなん関係あらへん。
今はあいつの事しか考えられへん。
どうにも、誤魔化しきれんかったなぁ。。。
俺はこいつの事が好きや。
「……お前と一緒に野球が出来て、俺は幸せやったわ。」
そう言うと、麻樹は泣きながらも恥ずかしいような顔をした。
涙を溜めた大きな目で、俺を真っ直ぐと見つめる顔はまるで子供のよう。
「ほんまにありがとうな。」
よぉこんな小さい体で、1年間やってきた。
今にも壊れてしまいそうな華奢な体。
普通に触れたら壊れてしまいそうで、自分でも驚くほどに丁寧に麻樹に触れている。
腕の中で声を押し殺して泣く麻樹。
今までどんな事があっても泣いた事がなかった麻樹が、今はぼろぼろと泣いている。
その姿は、いつもの気が強いプロ野球の姿ではあらへんかった。
「お前と出会えてほんまに良かった。」
ぼそっと一言、麻樹にだけ聞こえるように言った。
すると麻樹はまた驚いた顔をして、今度は嬉しそうな顔を浮かべて笑った。
そして一言、俺にだけ聞こえる声でこう返した。
「私も黒田さんに出会えて幸せです。」
その時の麻樹の顔は、絶対に忘れへん。
勝負師の顔でも、野球選手の顔でもあらへん。
たった1人の普通の女の人の綺麗な顔。
END