芥川龍之介

□恋の徴候
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首領直轄の遊撃隊所属であり武闘派組織「黒蜥蜴」を指揮する権限さえ持つ僕にも、どうする事もできぬ蟠り(わだかまり)というものがある。ここでは分かりやすく悩みの種とでも言っておこうか。






仕事を終えた僕は資料室から自室に向かう廊下を進んでいた。然し、すぐに前方の角から此方へ徐々に近づく靴の音に気づき足を止める。

さらに、響く靴音の無機質さからその人物が女であることを読み取り、普段ならば警戒を怠らぬ所である。しかし、現在その人物について大方の予想はついていた。幾分軽い足取りからは機嫌が良いことも伺える。

恐らく彼奴が仕事を成功させて戻ってきたのだろう。彼奴程の力なら成功させて当然だが。




そう一人思考を巡らせているうちに、その人物が角を曲がって此方に気づくまで、まさにあと数歩となった。




そして此方を見て驚いた顔をみせるまであと一歩。










「先輩お疲れさまです」






「………樋口」





珍しく自分の予想は見事に外れていた。否、僕がそんな失態をする筈がない。
後になって知ることだが、これは予想ではなく"期待"と呼ばれるものであったのだ。この時の己は知る由も無いが。苛立ちと共に生まれたこの落胆とも取れる心の沈みは何か。自分にはとても見当が付かないでいた。また、その未知の感情が己を苛立たせるのだ。


名も知らぬ感情と苦闘している間に、僕の普段より長い沈黙を不思議に思ったのだろう。
樋口が心配そうに此方を窺っていた。


「先輩、如何なさいましたか?」

「……夏は帰ったか」

「夏先輩なら、今し方任務を遂行されたとのご報告が」



僕は、ならば問題はないとだけ呟いて、樋口を残し再び真っ直ぐに廊下を歩き始めた。





後ろから、し、失礼します!と樋口のでかでかとした挨拶が聞こえたのを無視し、自分は何故、足音だけで何の証拠もなくあの女だと判断したのかということに思考を巡らせる。

勿論、期待などしていない。


ただ…









ただ?





そう一人問答をしているうちに、自分の執務室の前にたどり着いた。電気の付いていない暗い部屋に溶け込むように、その答えは今日もまた夜の闇に飲み込まれ、また心の蟠りとして底の知れぬ沼底に蓄積されていくのだ。
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