Innocent Dream

□Chapter7
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「すみません。遅れました」
息を弾ませながら名無しさんは楽長に挨拶をする。ここの楽団では、来た者から名前を名簿に書いて出席確認をするのだ。
「おー!名無しさんちゃん、よく来たよく来た!」
楽長は名簿長とボールペンを名無しさんに嬉々として差し出し、名無しさんはそこに苦笑いをしながら名前を書いた。そして軽く礼をすると、楽器庫に向かう。それから名無しさんはいそいそと楽器の準備を始めた。紹介が遅れたが、名無しさんのパートは中学校時代から付き合っているクラリネットだった。あの黒い、銀色に輝く木で出来た楽器だ。始めたきっかけは叔母がやっていたからという安易な考えからだったが、それ故に楽器はその叔母から貰っていて、練習する時間は人よりもあったので、名無しさんはすぐに上達した。
リードを咥えながら、急ぎつつ、でも丁寧に楽器を組み立てる。音出しを軽くして今日もキーの動きが滑らかであることを確認すると、クラリネットパートの部屋に入った。
「よろしくお願いします」
軽く礼をしてから、自分の席に譜面台などを置いて座る。
「よく来たね。じゃあ今日も頑張ろうか」
楽団とだけあって、社会人ばかり。ここにいる面々は仕事終わりに来た者達だった。
パートリーダーがそう一声かけると同時にその教室には音楽が響き渡ったのだった。

バレー部に入ってだいぶ仕事にも慣れてきた頃、楽団に入ってから初のイベントが控えているので、部活にも楽器や楽譜を持ってくることが増えるようになった。もちろん、マネージャーの仕事に差し支えない程度に楽譜を見たりすることは予め清子に承諾済みなので、割と堂々と練習していた。そのイベントというのは、市内の小さなお祭りでの演奏。曲目は幅広い年齢層が知っているような歌謡曲を中心に5曲。
そんなわけなので名無しさんは部活開始時間よりかなり早く体育館に行き、譜読みをしようと考えたのだ。だが、あまりにも早すぎたため、いつも練習熱心な影山や日向でさえもまだ来ていない様子だった。
ふと、名無しさんはここでちょっと練習しようと考える。肩にかかっているクラリネットを下ろし、楽器を組み立てる。
「ちょっとならいいよね…」と一人でボソッと言いながらいよいよ楽器を構えた。
暖かい日差しが窓から射している。そして、そこを流れる静寂。
だが、名無しさんは深く息を吸って、その静寂を美しく、そして力強い音色で切り裂いた。
響き渡る音。名無しさんはその響きの良さに高揚しながら、また吹き始める。
軽く音出しをして、もらった楽譜を練習し始めた。
連符に、装飾音符。昨日か一昨日に楽長に指摘された部分。名無しさんはすぐに時間を忘れて練習に没頭していた。誰かが来たら…なんて考えもいつの間にか消えていた。


月島は出そうになる欠伸を噛み殺しながら、いつもの体育館へ向かう。山口は先に行くとかなんかで一人で体育館に向かっていった。月島はその様子を見て、多分少し気になる名無しさんの元に行ったのだろうと思いながら、ゆったりとした足取りで体育館に歩いていた。
体育館に着いた時、体育館の扉の前に男子バレー部が勢揃いで扉の前に立っていた。
「…?みなさんどうしたんですか」
月島が尋ねると、スガが苦笑いをしながらほんのわずかに開いている扉の隙間を指差した。
「いや…名無しさんちゃんが、何か吹いていてさ」
大地も続ける。
「それにしても綺麗な音だな…」
そう二人が言っているのを聞いた後に、月島は静かに耳をすませた。
確かにここから音が聞こえる。普段、月島はヘッドフォンを使って音楽を聞いているだけで、別に音楽について詳しくはないが、これは素人が聴いても、聞き惚れるような綺麗な音色だった。
ふと、音楽が止まる。その時月島はその扉の隙間から覗いていた。
そこから見えたのは、いつもとは違った名無しさんの真剣な横顔。どこを見つめているのだろうか。少し上を向いたまま考え込んだ名無しさんの顔は太陽の光にさらされて、やけに妖艶に見えた。その様子は何だかとても…。
「きれ…」
と、言いかけて咄嗟に口を手で覆う。自分は今、何を言いかけたのだと。行き場のない感情が月島の中で渦巻いていた。
「?どうしたのツッキー…」
そう山口が心配した瞬間、扉の向こうから「うわーー!!!!」と大きな叫び声が聞こえた。
がちゃがちゃと慌ただしく片付け始める名無しさん。それを見た大地やスガは、優しい笑顔で体育館に入っていった。
「おーっす。名無しさん!楽器上手だな〜!」
スガはすかさず名無しさんを褒める。彼女は多分、一年のくせに練習時間になっても体育館を占領していたことに罪悪感を覚えるだろうと、踏んだことからの対応だ。
そして名無しさんは案の定、顔を真っ青にして月島含め男子バレー部全員に土下座をする勢いで謝罪を繰り返していた。
「本当に本当に本当に申し訳ございません!!!!大会も近いのに!!!!すみませんでした!!!死んでお詫びを!!!!」
そう謝る名無しさんに対してみんなは笑いながら「大丈夫!」とか「気にすんな〜!」などと、フォローの言葉を入れる。
「いや、死んだらだめだよ?」
そして山口が少し笑いながら名無しさんにやさしくツッコんだ。名無しさんは「でも…」とか言いながら山口に必死に助けを求めている感じだった。それに対して顔を少し赤らめる山口だが、名無しさんは焦りすぎていてそんなことにも気付いていない。
「名無しさんドンマイ!気にすんなよ!」
日向も名無しさんの背中をどんと押してフォローを入れる。影山もそれに続いて軽く背中をぽん、と叩くと、メンバーと一緒になって、アップを始めた。
「…せめて…。仕事がんばろう…!」
名無しさんもようやく気をとりなおしてきたみたいだ。清子にも優しくなだめられて、すっかり仕事をすることにだけ集中している。
月島は、最後に体育館に入った。仕事をより一層懸命にこなす彼女にはさっきまでの真剣な表情の面影すらなかった。いつもの、眩しいくらいの笑顔で、声を張る、仕事熱心な名無しさんだった。
それが、月島はとても気になった。もう一度見たい、だなんて口が裂けても言えないけれど、確かにそう思ったのだった。

「きれい」だと。



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