図書館と司書と文豪

□例えばこんな誘拐騒動
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 全てが終わってから、亂歩先生は私に施されていた拘束を解いた。目隠しをされていたから、何をしたかは知らないが……悲鳴が凄かった事は明らかにしておこう。
 拘束を解く手は実に優しく。本当に壊れ物を扱う様に優しくて、大分遅れて遣って来た恐怖から、私は亂歩先生に縋り付いてしまう。
 ……ダメだ。この人は既に亡くなられている方。私が此の人に深く想いを寄せてしまえば生死の境の法則が揺らぐに違いない。
 いいや、恐怖から解放された人間としては正しい感覚だろうか。自白剤はこんな精神面にも作用するのだろうか。実に深い思考が巡らせられなくて、非常に不味い気がする。……ああ、百錠程度の睡眠薬を一気に飲めばこんな感じになるのだろうか?

「っ、大丈夫ですか!?」
「むり……わから、ないです……」

 自白剤とはこんなに思考を鈍らせるのか。私は改めて恐怖を抱く。
 亂歩先生が私を抱き抱える様にして立たせるが、私は真っ直ぐ立てていない。と、思われる。色々と感覚がふわふわしていて断言は出来ないが、亂歩先生が私を抱える腕の力を強くしたから……恐らくは。
 頭がフラフラする。現状が上手く呑み込めない。頭脳を取られてしまえば、私は何の役にも立てない。役立たずにまで成り下がる。価値が無くなれば、私と言う物質は虚無にまで還るに違いない。恐ろしい。容易く虚無に還れるこの身体が、我が身が恐ろしい!
 頭が揺れるのとは違う動きとして、身体が震える。

「……早くここから出ましょう。森さんとも、早急に合流した方が良いです。あの人の医学の知識は貴女から見れば一昔前でしょうが……他の人に任せるよりも安心できます。何せ、軍医ですから。」

 何を言っているのか、上手く認識が出来ない。この程度も解せないとは、とうとう私が虚無に還る瞬間が訪れでもしたのだろうか。
 虚無に還った人間。それは<死者>に違いない。私は幼少の頃から呼吸器官の問題でそれと近かった。司書になる前までは「今死んでも良い」とは思っていた。思っていたが、司書になった今、「今死ぬ」のが怖い。私は、まだやりたい事がある。先生たちを遺して逝くの? 文学書の危機を誰かに投げて逝くの? ――嫌だ、嫌だ、嫌だ!
 私はようやく自分の居場所を見つけたと言うのに、また存在を否定されねばならないのだろうか。嫌だ。私は確かに此処に居るのに、どうして、何故に生きている確証が得られない日々を送らねばならないのだろうか。
 とにかく怖くて、恐ろしくて、私は亂歩先生に縋り付く。

「せんせ、らんぽせんせ……。わたし……を、みすてないで……がんばるから、たくさんかんがえるから、みすてないで……」
「……ふ」

 亂歩先生が笑った気がした。その笑顔は、時折とんでもない事をやらかすが……実に、安心できる笑みでもある。自信に溢れ、優秀の名の下私を補佐してくれる名助手の、笑み。

「――先程、私を呼ぶ際に貴女は何を諳んじましたか?」

 頭が、撫でられているのだろうか?
 その様な感覚がする。撫でるとしたら、亂歩先生が撫でてくれているのだろうか……?

「……『地獄の道化師』から……巨人の影……?」

 何を聞かれたのか。辛うじて聞き取って意味を理解する事が出来た。そして回らない頭で記憶を掘り返して、答える。亂歩先生は実に愉快そうな声で私に話しかけて来る。
 うれしそうだな、とは思った。

「この私でさえ、あれを諳んじてくれているとは思っていませんでしたよ。<島>とか、<坂>とか。他にもあったと言うのに。熱心な読者で、嬉しいです。私たち作者は、読者がいないと成り立たない。文豪と言われる立場にある、少し有名な作者でしかない私たちだって、作品を受け取ってくれる読者がいないと意味が無い。」

 私を抱えている――若干不本意だが、事実だ。仕方無いだろう――亂歩先生はゆっくりと歩き始めていた。私は身体がゴムの様になってしまっていたが、何とか一歩を踏み出す。

「ですから、その熱心な読者である貴女を、私が見捨てるなど言語道断です。他の方もそうですよ。よってその恐怖は全くの無根拠です。安心なさい。」

 なんと言われているかは理解できないが、安心して良いのだと言うのは分かった。だから、私は意識を飛ばしてしまった……。





「気絶、してしまわれましたか……」

 気絶してしまった者は重い。それでも病弱な彼女を、部屋の外に出してやるのはそれほど骨が折れる作業では無かった。壁に凭れさせる様に丁重に降ろしては思う。彼女の体重は、紙の様な、と言えば大袈裟だが、確かに平均よりは軽いであろう。
 ――むしろ、気絶していてもなんとか運べる程度の軽さでしかない彼女に、どうしてか哀れすら感じられる。それこそ先ほどの彼女の台詞では無いが。

「可愛いですよ、貴女は。」

 江戸川は「失敬。」と呟きながら彼女の懐を探る。彼女は黒いゴシックドレスに、黒いベスト。黒いマントをして……と、着ている量が多くやや手間取るが、――着ている量が多いのは仕方ない。日光に当たると、皮膚が赤く日焼けしてしまうのだから――江戸川は無事に携帯電話を取り出した。
 現代の機械は実に優秀で、例え何処に居ようとその場所を表示する機能があるらしい。江戸川は難なくその設定を点け、先ずは図書館へ電話を掛けた。
 今、江戸川が抱えていた彼女は、帝國図書館の司書である。かなり優秀な。
 病弱である事を差し引いても、優秀な頭脳を持つ彼女が行方不明とあらば、彼女に転生してもらった文豪だけでなく館長ですら慌てて探し出す。特に司書の事を気に入っている何人かは、誘拐されたと断定しては殺気立っていた事も含めて江戸川はくすりと笑う。思い出し笑いだ。
 確たる証拠も無いのに断言してしまうのは、推理小説作家から見て、「浅はか」で「滑稽」だ。少数派の意見を取る江戸川だが、譲れない事もある。犯人は確たる証拠が無ければ、存在すら断言してしまってはならない。冤罪は憎むべき悪であろう。
 彼らが狼狽している姿は、江戸川にとっては実に滑稽に見えた。だが同時に、自らにも存在する殺意を、つい押し殺してしまっていた事に自嘲せざるを得ない。本当は彼らと同じ様に誘拐と断定しては、殺気を隠す事無く、捜索に当たりたかった。
 しかし、其れは江戸川の信条に当たる部分に抵触してしまうし、彼女も喜ばないだろう。彼女は、其れこそ苛立つ時は少々過激な事も言うが、病弱な身体に相応しい平穏を愛する質である。――本と文豪と研究が関わると、大分人が変わった様に成るが。
 だが、それは承認欲求にも近しい所に根付いている想いであろうとは思っていた。まさか、此処までだとは。
 同時にそれを己だけが知っているこの高揚感。いけない事だとは承知しているが、言葉は、想いは取り消せない。

「悪い遊戯と書いて、悪戯。本当に、自分の性分も実に困ったものです……」

 苦笑とも、微笑とも違う笑みを浮かべる。すると丁度その時に電話が取られた。

『誘拐犯か? わしらのお司書はんを帰してもらいましょか。』
「私ですよ。落ち着いて下さい、織田さん。」

 実に剣呑その物の声をした織田が、電話に出た様だ。たまたま電話の近くに居たのが彼だったのだろう。
 江戸川の声を聞いて、織田はやや声を柔らかくした。

『なんだ、お兄さんや無いですか。どーこ行かれたのかと! お司書はんが優先とは言え、助手であるお兄さんもいなくなっちゃと、一応心配してたで?』

 歯に衣着せぬ物言い、とは彼の今の発言の事を言うのだろうか。
 江戸川は何回目かに思うことを、再度ぼんやりと考えては答える。

「司書さんに召喚されまして。無事に彼女は助け出せましたが、気絶してしまわれまして。取り敢えず今は、彼女の携帯電話からかけています。」
『お司書さんと一緒! それは良い報せや!』

 江戸川が言うと、明らかに安心した様な声が返ってくる。織田は彼女に指名されて転生してきた……最初の助手。今でこそ江戸川が助手を務めているが、徳田が一番初めの潜書で江戸川を連れて帰って来るまでは、織田が助手を務めていた。
 残念ながら坂口の転生は出来ず仕舞いだったが、彼を転生させる様命令が下った時には、彼と縁のある江戸川が潜書した事もある。潜書している文豪は助手が出来ない。だからその時には織田が助手を務めていた。……もっとも、無頼派繋がりで織田が潜書する回数の方が多かったが……閑話休題。
 ともあれ、織田は司書と共に過ごした時間が長い一人だ。司書捜索に殺気立っていた一人でもある。

『待て。何でお司書はんやのうてお兄さんが電話を? 気絶したー、言うてたけど、どないして。』

 呼ばれなかった事に悔しがっていた筈だが、気付いた様に織田が問う。
 江戸川は簡潔的に答えた。

「彼女は自白剤を打たれた様です。量が悪かったのかは知りませんが……」
『よっしゃ。居場所突き止めたで。お司書はん誘拐した阿呆に、わしもキッツイの喰らわしたるわ。着くまで其処で待っとれ。』

 殺気が電話越しに伝わって来た。一方的に切られた電話に、一瞬だけ目を丸くした江戸川は、クスクスと笑う。

「お司書はんの事になると、本当にあの方は行動が早いなぁ……。」

 わざと織田の口真似をして、江戸川は呟いた。
 あれだけの説明だったが、彼女にやや甘い織田ならば……恐らくは吉川と森は連れて来るだろう。吉川は彼女を運ぶ役、森は言うにも及ばず、だ。
 後は来て谷崎か北原か。其れだけを見当付けて、江戸川は自らのマントを脱いでは彼女にかける。

「女性が、しかもお体の弱い貴女がその身を冷やす事もありませんよ。」

 最初から警察に突き出す気が無かった己の事を、彼女は何処まで見抜いているのか。織田と谷崎か北原とどうやって灸を据えてやるか。
 江戸川は由無し事に思考を巡らせながら、彼らの到着を待った。
 
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