ニョルド
□午前2時の恋人
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ピンポーン。
深夜2時、今日もまたインターホンが鳴る。
相手が誰だか分かっていても、僕は覗き穴越しに彼と目を合わせる。
表情の無いその虚ろな目は、やっぱりチャニョルだった。
助けて…声にならない声を上げ、僕は裸足のまま玄関に座り込んだ。
チャニョルは僕の恋人だった。
明るくて誰にでも優しくてカッコ良くて、周りに常に誰かが居る人気者だった。
一方で同じ学部に居た僕は、人見知りで人の和に積極的に入るタイプではなく、最初は賑やかなチャニョルがむしろ苦手だった。
それが、たまたま興味があって誘われた洋楽アーティストのイベントでチャニョルに偶然会って、音楽の趣味がピッタリだったことがきっかけで話す様になった。
話してみると苦手だったのが嘘だったかの様に意気投合し、いつしか友達から恋人になった。
チャニョルは付き合ってからもマメで、よく連絡をくれたし、僕達は何でも隠し事なく話し合える仲だった。
チャニョルにほんの少し違和感を覚えたのは、付き合って半年が経った頃だった。
ある夜、ゼミの飲み会でうっかり酔っ払ってしまってチャニョルに電話できず、タクシーで深夜に帰宅した時だった。
その頃、チャニョルは週の半分は僕の部屋に居て、泊まっていくことも多かった。
今日は何も予定は無いって言ってたから、たぶん僕の部屋に居るだろう。
腕時計を見ると、既に深夜の2時を指していた。
きっとこんな時間で電気も消えているし、寝ているに違いないから、起こさないように部屋に入らなきゃ…。
少し酔いの冷めた痛む頭を抱え、そっと玄関のドアを開ける。
「おかえり。」
暗がりの中、まるでずっとそこに立っていたんじゃないかと思うぐらいの距離にチャニョルは居た。
「ひっ。」
思わず僕は、持っていた荷物を落とした。
「大丈夫?あんまり遅いから心配したじゃん。」
「…ごめん。先に寝てくれてて良かったのに…。」
「俺、ギョンスの恋人だよ?待ってるのは当然だし。」
「ありがとう…。」
そう言って僕の肩に置いた手は氷の様に冷たくて、僕は震え上がった。
それからと言うものの、チャニョルは僕と一緒に居ない夜は、必ず深夜2時に電話をかけてきた。
チャニョルは、何か責める訳でも詮索する訳でも無く、淡々とギョンスが無事だったらいいんだと、心配なだけなんだと話した。
そして、最後に必ず『愛してる。』と言って電話を切る。
まるで、僕を縛る呪文の様に。
「なぁ…。お前ら上手くいってんの?」
「え?」
今まで授業中に居眠りする事も無かった僕が、クマを作ってウトウトしている様子を不審に思った親友のベッキョンが、見かねて声を掛けてくれた。
僕が事情を話すと、ベッキョンは普段のおちゃらけた様子とは違って、黙って何か考える風だった。
「…ギョンスには酷かも知れないけど、今の内にあいつと距離を置いた方が良いと思う。」
「…でも。」
「チャニョルはお前を『愛してる』から?」
「…。」
「確かにそうかも知れないけど、俺からすると異常だよ。俺はお前が心配なんだよ、ギョンス。」
今まで『愛してる』という言葉で自分を誤魔化していたけど、改めて他人からおかしいと言われると、身震いが止まらなくなった。
「チャニョル…僕達少し距離を置こう。」
「ギョンス…何で?」
「チャニョルの気持ちが僕には少し重いんだ。愛してるって気持ちは充分感じてるから、誤解しないで…。」
「…。分かった。」
背を向けた僕には、チャニョルの小さな声は聞こえなかった。
「少しだけね。」
それから僕は引っ越し、チャニョルの夜中の電話もかかって来なくなった。
あれだけ怖かったはずなのに、なぜか電話のかかってきていた時間には目が覚め、着歴が無ければ少し寂しいと思ってしまっている自分が居た。
これは怖かったとは言え、きっと恋人と別れた寂しさから来る反動だと自分に言い聞かせていた矢先、の事だった。
ピンポーン。
深夜2時、丁度僕が目が覚めた直後、チャイムが鳴った。
速まる鼓動と嫌な予感に背中を伝う汗を感じながらそっと覗き穴を覗くと、そこには紛れも無いチャニョルの姿があった。
悲鳴を上げそうになる口を押さえ、かろうじで声を抑えた。
インターホンを鳴らしたのはチャニョルだった。
「ギョンス、居るんでしょ?俺はただギョンスが心配なだけなんだ…愛してるから。」
『愛してるから。』
くる日もくる日も繰り返すチャニョルの言葉は、深く僕の心を縛ると共に、徐々に侵食していく。
こんなのおかしい、助けて欲しい、そう思っているはずなのに、深夜2時に愛を囁く恋人が愛しくなっている。
「…僕も愛してる。」
震える手で、僕はそっとドアを開けた。
Fin.