倉庫

□嘘と血の雪華。
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〈font face="メイリオ" size="3"〉


「おおきくなったら、ミーシャお兄ちゃんのお嫁さんになる!」

これが、私――ツヴェート=ロンドの、幼い頃からの口癖だった。
私は、ユーラシア大陸の北端にある小さな村「ドッグヴィル」で産まれた。「シリウス」という、先祖代々続く狼の血縁の中で、余所者との子である私の存在は異端そのものではあったが、村の人々は、暖かく私を育ててくれた。
その中で出会ったのが、憧れの存在、ミーシャ……ミハイル兄さんだ。彼は、私の母の妹の長男で、年寄りばかりになっていく村で一番の狩りの腕を持ち、おまけに優しくて格好よくて楽しい人だった。そんな彼を幼い頃から見せられていて、憧れないというのは無理な話である。
ライバルは、彼の弟で私より五つ年下のユーリィだった。彼は彼で、私と同じようにミハイル兄さんに憧れを抱き、私と彼で顔を会わせる度に殴りあいの喧嘩ばかりしていた。……勿論、私の全勝だった。チビで泣き虫で弱虫のユーリィに、私が負けるわけない。
女の子は、普通裁縫や料理や子育てを学ばなければならないと、幼い頃こそ言われてはいたが、私はそんな辛気くさいことより、野山を駆けずり回って動物を仕留める方が得意だったし、食い扶持が少ない今は一人でも多い方が言いと黙認された。
……お陰で、十年たった今でも裁縫は苦手だ。料理は簡単なものならプロ並みには作れるが。こればっかりは、数年間に及ぶ修行の賜物というべきだろう。
ユーリィには、そんなんで兄ちゃんと夫婦になれるものかと馬鹿にされたものだが、そこは勿論力ずくで黙らせた。

「ユーリィは、本当にツヴィが大好きだなぁ」

とは、ミハイル兄さんがよくユーリィにからかって言っていた言葉である。そういう時は冗談じゃないとミハイル兄さんを可愛くぽこぽこ殴った。
それを見ていたユーリィが、「僕への殴り方と全然違う!」だのと喚いていたが(ユーリィには拳骨で一、二発全力でかましていた)、知ったこっちゃない。好きな人相手に本気で殴るバカがいるかと言ったら更に喚いたので、ほっぺを両側にうにょ〜んと引っ張って黙らせた。
二人が山で大きな鹿を狩ってきたとき、ミハイル兄さんが「これはユーリィが狩ったんだ」と言った言葉にどれだけショックだったか。
私だって熊を二頭、矢で狩ったことがあったが、あれはただのまぐれだ。それにどちらも、栄養が足りずガリガリで、手にできたのは僅かな肉と毛皮ばかりだった。
今度は私が、と殺気立っていたところに、ユーリィが本当はミハイル兄さんが狩ったのだと言うことを告白して、私は力が抜けると同時にミハイル兄さんに対して苛々して、あのときばかりはちょっと本気で殴った。
かなり痛がられたので、そのあとは嫌われたら嫌だと半べそかいて謝ったのだが、割りとあっさり許されて、大分拍子抜けしたものだ。

「そんなことはいいから、鹿肉を食べよう。母さんたちが今料理してくれているんだ」

――恥ずかしながら、私はミハイル兄さんの次には肉を食べることが好きな野生児だったので、すぐ頭は鹿肉料理の宴会に移行した。

「ツヴィはああ言ってるが、ミハイルはどうなんだ?」
「ツヴィは確かに可愛いよ。だけど、妹としてだ。それに、ユーリィはツヴィが好きらしいし」

鹿肉料理の並ぶ宴会の席で、私とミハイル兄さんはかなり遠かったけど、長老と彼の会話は、小さい頃から人より聴覚に優れる私にはバッチリ聞こえた。その時私はずっと幼かったし、彼には異性として一切見られていないことも分かっていた。
けれど、やはり直接耳に伝えられてきたミハイル兄さん本人の声に、心臓から肺から、凍った血液が全身を支配するようにパキパキ冷たくなっていく気がした。
手洗いに行くと理由をつけて、涙目を見せないように静かに席を立った。その様子に何があったかを悟ったらしい、育て親のマーサおばさんが声をかけてくれたが、ただただ首を横に振って立ち去った。
村で飼っている、羊の屠殺場の隅にある、樽と木箱を組み合わせて作った私だけの秘密基地。泣きたくなったら、私はいつもここに駆け込んでいた。大人にも見つかっていないここには、私がこつこつ溜め込んだ干し肉と、作りかけの矢尻とランプと……その他諸々だ。
涙をぼろぼろ溢しながら、大きな干し肉をクチャクチャ、味がなくなるまで噛み続けた。いつもなら三十分くらい泣き続けて、泣きつかれて。泣き果てた私は干し肉を握ったまま眠ってしまったのだった。

「GRAAAUUUUUOOOOOO!!!」
「イヤァァァアアッ!!」

聞いたことのない鳴き声を聞いた。そして、マーサおばさんの、切り裂かれた悲鳴。はっと目が覚めた時には、私はいつの間にか消えたランプの下で踞って震えていた。真っ黒な闇の中、私の心音と息がやけに煩くて、遠くから聞こえる悲鳴と雄叫びに頭が揺らされた。
ガタン、と、屠殺場の入り口を開けられる音を聴いた。寒いはずなのに、訳もわからず冷や汗と渇れたはずの涙が溢れた。
震える体の出す音に気付かれないように、両手足をぐっと縮めて、マフラーで口を押さえた。動悸が押さえられているか不安で、でも動いてはいけないことを本能で感じていた。

「フーッ……、フーッ……」

人でも獣でもない、腐臭と血の臭いの混ざる、気持ち悪い吐息。
ドシャッ!と、入り口近くの荷物が崩された音。ひた、ひた、ひた、と、肉球とも蹄とも違う足音。その生き物はぐるぐると暫く屠殺場の中を歩き回ったあと、私の前に立ち止まった。
バゴン!と頭上から破壊音が聞こえた。私の秘密基地は、縦に四つ積まれた木箱の、下から一つめと二つ目だ。その隣に着けた樽から立て膝になると、側面から上二つの木箱へ繋がる扉を開ける。そこに、干し肉やランプ用の油のストックが入っているのだ。
張り積めていた息を吐き出しそうになって、慌てて飲み込む。化け物は恐らく少しの間その場に留まったが、少しするとその場を去っていった。
はぁ、と胸に溜まっていた息を大きく吐いて、私はそのまま気を失ってしまったのだった。

私が、以上を検知して現れたソ連軍に保護されたのは、それから四日後だった。最初の数ヵ月、ひたすら事情聴取され、冷たい牢の中に監禁されていたが、まだ幼いこととショックで一部記憶の混乱が見られるという理由で、私はソ連軍の兵士としての身分を与えられた。……実際には、何か揉み消すような力が働いていたように思えたが、真実は定かではない。

最初の二年は、少年兵として狙撃部隊に配属された。基礎訓練やら体力強化ばかりだったが、あの兄妹たちと幼い日にこっそり漁って読んだ、彼らの父が溜め込んだ色んな本の知識がかなり役にたった。蔵書の中には、子供が読むには些か不健全な物も多々あったが……お陰で随分耳年増になった私は、ペドな上官をたぶらかして安全な地位を手にいれ、肉体の急激な成長に伴って更に数多の役人・軍人どもを手玉に取った。――いや、正確には取ろうとした。
ソ連軍の中にひっそりと構える諜報機関のお偉いさんに、その行為に目を付けられてしまったのだ。努力によって多少は磨かれているといえど、至極平凡な、さして顔もプロポーションもよくて二流な私がどうして、と。結論は、耳年増であることや、生まれついての演技力、村でおばあさま方に散々叩き込まれた舞踊の仕草からなる色気だったりなのだが。
――それから三年年間近くを、ソ連軍の諜報員として教育を受けた。新たに借りた名は、「マイ=ハナザワ」。ソ連軍と一切つながりのない、日本人の華族の一人で、結核で隔離病棟に入っている三十代の女性である。私は、これからこの人になるのだ。モンゴル人とロシア人のハーフであった父の血が色濃く出た色素は、黄色人種を彷彿とさせるという理由で、満州から日本へと渡った。
顔の作りも、母に似て柔らかく、スパイを疑われにくいため、閨も仕込まれた。唯一助かったことは、それにより処女を喪失してはいなかったことか。
演技も、言葉も、癖も、記憶術も、戦闘も、何もかもを仕込まれた。スパイとして思考が鈍っては困ると、薬物を仕込まれこそしなかったが、知識や扱いは散々叩き込まれた。正直、思い出したくもない。
自白剤を射たれたり、極寒の海を着衣で十キロ近く泳がされたり、気色の悪い男相手に色仕掛けをかける練習をさせられたりと、何度も死んでやろうと思ったが、故郷で死体の見つからなかったミハイル兄さんとユーリィと、いつか再会できるかもしれないと思えば、なんだってできた。
だけれど、満州へ渡ったその日から、私の思考の影には不安が憑いていた。
軍の中で成り上がるためだけに、上層部の爺どもにベタベタ触られ、自らも愚かな男どもを悦ばせたこの体は、例え処女であろうと穢れそのものだ。生き残るため仲間を出し抜くために罠を施し、妻子ある敵国の兵士の首を爪でかっ切ったこの手は血塗れだ。教官である男の信頼を得るために言葉を選び、敵兵を惑わせるために嬌声を吐いたこの口は嘘に塗り込められている。
私が再び二人に会えたとして、拒絶されないはずないだろう。昔は、それでもいいと、生きて会えれば十分だと思っていた。けど、今は違う。
こんなにも変わってしまった私に、彼らはなんと言うだろうか……?
任務の遂行なんて、私にはどうでもいいことなのだ。ただ今は、二人の生きている姿をこの目で見たい。それだけを祈りながら、私は満州から日本へと向かう船の中、いつかのように丸く小さく寝転んだのだった……。

――「シリウスの匣を手に入れろ。最悪、他国に入手されることを絶対に阻止しろ」

それが、日本へ来た私の帯びた密命だった。
シリウスの匣……なんと聞き覚えのある言葉か。それを知っていた上官は、私情を挟まれないようにと最初は私からこの任務を遠ざけていたようだったが、私の執念に観念したのか、やっとのことでお鉢が私に回ってきたのだった。
当然だ。シリウスの末裔であるあの兄弟が、シリウスの匣に関わらないわけがないのだ。それに、匣をドッグヴィルから持ち出したのは彼らの父親。
――これまで同僚たちを貶め続けた介があったというものである。
上官は、「他国の入手を阻止する」ことも任務の完了条件として提示した。ならば、匣を入手してどこか遠くへとんずらするのもありかもしれない。こんな生き方をして、まともな死に方で死ねるとは到底考えていやしない。きっと地獄へ堕ちるのならば、いい夢の一つ二つ見たっていいはずだ。
例え二人に嫌われようと、生きて会えれば。
船の中でそう改めて割り切った私は、船から降りて空を見上げた。

――嫌なくらい、青い空。

死ぬな、殺すな。
教官から教わり続けた言葉を反芻する。
何があろうと絶対に死なない。生きて二人に会わねばならないのだ――。
文明開化の音が鳴り響く大日本帝国へ、私が降り立った瞬間であった。

◇◇◇

その後あらすじ

町を歩き、狩人たちとすれ違うエリシャ。すぐにユーリィに気付き、尾行。その流れで、かつて故郷を襲った怪物がヴァンパイアと知り、ユーリィに直江家の書生に扮し接触、情報を引き出す。(ユーリィ、エリシャの面影に母を見る。恋愛感情とは違う。この時点ではスパイとはバレていない)
その後、ユーリィが変わり果てたミハイルと接触した場面に遭遇。今度はミハイルを尾行(笑)。あっさりミハイルに捕まるも、変装のために正体に気付かれず。傷つきつつホッとするなか、情けを貰い、逃がされる。
その後ユーリィの捜索をする狩人たちと接触、正体を怪しまれ、陸軍にも目をつけられ始めたところ、ソ連の別の諜報から接触があり、匣は樺太にあるためそちらに行くよう指示される。
電車でミハイルに再会、「マイ・ハナザワ」という華族の未亡人として近くから情報を盗もうとするも、あっさりと匂いで「直江家の書生」と同一人物と看破され、これ以上近づくなと拒絶される。ツヴィは渋々承諾……と見せかけて、そのまま樺太に一足先に渡る。
ユーリィから聞いた、「匣は、ヴァンパイアを生かすも殺すも自由」という言葉に望みをかけて。
洞窟には、エフグラフより先に侵入できたものの、調査していたところにエフグラフとそのボディーガード、ミハイルが入ってくる。何とか脱出を試みるが、ミハイルが気絶させられたのちに拘束される。「自分はソ連の使者であり、アルマ紹介と(匣の)取引に来た」と言って(嘘は言ってない)共に行動することになる。

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