Fe=x 大人≧x≧子供

□捌、八日月
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――医者side(三年前)

「お久しぶりです」

それは、俺の診察時間が終わる直前にいきなり診療室に現れた。あまりに唐突なことに、珍しく動揺させられる。
俺は、目の前の子供の言葉に一瞬目を剥き――だが、すぐに、誰だか思い出した。
忘れるはずもない。
なんたってその子は、俺が初めて担当した小児であり、何よりその姿は、八年たった今も微塵も変わっていないのだから。
しかし、それでも一瞬誰かわからなかった。それほどまでに――

「随分と、変わりましたね」

そう、変わったのだ。たった八年で。

「変わりますよ、そりゃ。そうやって生きてきましたから。――生かされてきましたから」

家畜のように、と子供が呟いた。――家畜。
少なくとも、本来小学生が自虐に用いる言葉でないことくらい、子供と関わることの少ない俺にもわかった。
だが、その言葉を吐き出しても不自然でないくらい、目の前の子供が擦れているのは目に見えて感じられた。
両親を求め必死に言葉を紡ごうとしていた唇は、必要以上の言葉を口に出さぬように真一文字に結ばれ。零れ落ちそうなほど見開かれていた純粋な硝子の瞳は、何人も近寄らせない警戒心によって野良猫のように細く吊り上がって。
……割れて飛び散った硝子の破片のような危うさだ。

「初等教育を終了しました」
「それはお疲れさまでした。それとも、ご卒業おめでとうございますと言った方が良いのかな?」
「意味合い的にはさして変わらないと思います」
「そうですね……。
今日は何をしにここまでいらしたんです?まさかわざわざそれを伝える為だけに来たわけではないでしょう?」

暫く考えるような素振りを見せてから、その子は「私は」と続けた。

「私は――本当に人間なのですか?」
「人間ですよ。この国の法律と、道徳の教科書によると」
「私は、そんな回答を求めたわけではありません」
「けれど、そういうことでしょう?思春期を迎えようとしているあなたは、つまり、他人からの評価に飢えている。ならば、大人も子供も平等に抗えない法律を参考にすべきだと思いますがね」
「違います、私が言いたいのは……えっと、効率と最善は…………違うな、えっと、建前と本心は、違うということなんです。
『みんな』、私の前では努めて明るく優しく振る舞ってくれましたが、それだけでないことは知っています」
「なら、その『みんな』とやらに聞けばいい。私に聞いたところで、その『みんな』とやらの本心とは高確率で違うものだと、保証して差し上げましょう」

言うと、その子は僅かに身動いだ。
『みんな』というのは、恐らく彼女の周りにいる同年代の不特定多数の子供を指しているのではなく、身近な同年代の『誰かたち』、それも数少ない人間だろう。
この位の歳ではまだ、幼すぎて世界が狭い。一般的には精々、家庭と学校程度。しかしこの子は、その二つのうち『家庭』何てものは八年前に消えた。……なら、幼いときに、たった一年間といえ深く交流のあった俺を訪ねるのも無理ないだろう。――そこはかとなく、迷惑な話だが。

「それとも、学校の先生に訊いたらいかがです?私よりよっぽと『らしい』答が返って来るでしょう」
「保健室直行は、もう何度もしましたよ。スクールカウンセラーにも、何度も会った。それでも無駄でした。私は、そんな用意された答えが欲しい訳じゃなかったです」
「面倒ですね、さっさと認めてしまえば良いじゃないですか。――自分はただ、本心から人間だと認められたいだけなのだと」

いい加減、面倒臭くなってその子を突き放すように言いつけると、やっとその子は外見に見合った子供の表情で驚いて見せた。
『何でわかるの』でもなく、『何でそんなことを言うの』でもなく、ただ単純に驚いて見せたのだ。そしてその顔のまま「なるほど」と言った。

「ありがとうございます、先生はやはり凄いですね。本当に、その通り……私は、全く気づいてなかったのに。やはり先生は、凄い」

そういえば、幼い彼女には何度も「すごいすごい」と誉めそやされた。別に、俺は特別天才と言うわけでもないし、幼女趣味のような危険な趣向は持ち合わせていなかったため、そんな子供の純粋な尊敬など気にもしていなかったが。

「お忙しい中、お邪魔してしまいすいませんでした。失礼します」
「ええ、それは良かった」

憑き物の落ちたような雰囲気を出しながら、彼女は診療室の椅子から立ち上がった。
彼女は診療室のドアに手をかけ、少し開けてから一度立ち止まると、「先生」と言って振り返った。

「結局、先生は、どう思われているのですか?」
「……精神は十分人間じゃないですか?残念ながら、肉体は無機質ですが」
「そう、ですね」

彼女は俺から顔を背けると、「失礼しました」と言って静かに出ていった。表情を見ることはかなわなかった。
俺が彼女に与えたビニールの皮膚と鉄の骨が、何故未だ五歳のまま止まっているのか、少し不思議に思いながら。


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