セジュン

□遅咲きの花
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古いアパートの扉を開けてすぐの台所に立つ小さな背中。淡いグレーのニットからのぞく白いうなじ。セフンは玄関で靴を脱ぎ捨て、吸い寄せられるように後ろからその華奢な腰に腕を巻きつけた。

「ただいま。いい匂い…何作ってんの?」

恋人のジュンミョンが小気味よく野菜を刻む音を聞きながら、そのうなじにうっとりと顔を擦り寄せる。いい匂いなのは料理のこと半分、ジュンミョンの色香半分。恋人の肌はいつでもそそられるものがある。

「あさりのテンジャンチゲと、それから昨日の残り……」

「うん…うまそ…」

セフンはジュンミョンのうなじに口づけを落とした。もうセフンの関心は夕飯よりも完全にジュンミョンの方へ傾いている。セフンは首筋に唇を這わせながら、ニットを捲り上げて服の中に手を差し入れ、細い腰のラインを大きな手でそっと撫でていく。ジュンミョンはそれには何の反応も示さず、黙って包丁を置いた。

「……昨日、どこ行ってたの?」

ジュンミョンの滑らかな肌を味わうように動いていた手が止まる。
昨日、セフンはこの家に帰らなかった。
元々、ジュンミョンが一人暮らしをしていたこの家にセフンが転がり込むような形で始めた同棲生活。
生活費はジュンミョンが支払っている。セフンはギャンブルで儲けが出れば金を渡しはするが、儲けが出る日なんてほとんどありはしない。そもそも、その賭け金もジュンミョンの財布から出ている。いわゆるヒモというやつだ。
それでも、ジュンミョンがセフンを責めることはなかった。家に帰らないのも昨日が初めてではない。セフンが家に帰らない理由はジュンミョン以外にも夜の相手が外に何人もいるからだ。でも決して誰のことも本気ではなかった。セフンが最後に帰ってくるのはジュンミョンのところだ。セフンの中でそれだけは揺るがない。ジュンミョンはいつだって寛容に自分を待っていてくれるから……

「友達のとこに泊まってた。何か悩んでたみたいだから話聞いてやって酒飲んで、そのまま寝ちまった」

「そう……」

セフンはジュンミョンの硬い声に気付かぬまま、恋人の細い腰をぎゅっと抱きしめ、その薄い肩に顔を埋めた。


毎週土曜日は、ジュンミョンの勤務が遅番の日で帰りは朝になる。
そんな日に限ってセフンは堪らなくジュンミョンに会いたくなった。ジュンミョンを抱きしめて眠りたい。温もりを感じていたい。何よりあの柔和な微笑みが恋しい。
その思いを晴らすように毎週土曜日は自然と酒量が多くなるし、ジュンミョンの穴を埋めるように人肌が恋しくなる。そして、そんなセフン対して遊び相手は性別を問わず引く手数多で困ることはなかった。

それにしても、今夜は飲み過ぎた。
いつもであれば、適当に相手をひっかけてホテルや、相手の家で過ごすのに、今日はそれどころではないくらいに酔っ払って、よく行くゲイバーの店員に抱えられて家に帰ってきた。自分の住所を伝えられたのは奇跡だった。

「はぁー重っ!ちょっと、セフナ!鍵どこよっ!」

「ジーパンのポケット……尻の……」

「ほんとっ、世話が焼けるんだから!」

尻の上でゴソゴソと手が動いたかと思うと、うつらうつらしている間に古い扉が軋んで開いた。そのまま雪崩れるようにベッドに寝転がされる。
月明かりだけの薄暗い部屋の中で大の字のまま放心していると、名前を呼ばれ首だけをことりと声の方へ動かした。

「セフナ、もう私帰るかr…」

セフンはベッドに投げ出されていた相手の腕を取った。俺は一体何をしているのだろう。分からないまま、相手の目を穴が開くほど見つめる。

「……あんたそれ、誘ってんの?」

目の前が暗くなるのと同時に、薄い唇が酔って火照ったセフンの唇の上に落ちてきた。深くなるキスの合間に「ずっとあんたのこといいと思ってた」と荒い吐息混じりに告げられる。そんなことはどうでもいい。枕から、シーツから、今肌に触れているこのベッドの全てからジュンミョンの香りが漂ってくる。酔った頭では物の善悪は考えられなかった。ただ無性にジュンミョンが恋しい。それだけがセフンの頭を支配していた。セフンは事が済むと泥のように眠った。


翌日の早朝、鍵が回る音にも扉が開く音にも気付かずにセフンは眠り続けていた。
鳥が囀り、朝日が部屋を照らす爽やかな朝。
それに似合わぬ大きな物音が響いた。
ジュンミョンが仕事帰りに買ってきた朝食のキンパやらスープやらが入った袋を落とした音だった。それらが見るも無残に床に散らばっている。 

最初に目を覚ましたのは、セフンの隣で眠っていた男だった。
男は、相手がいたの、勘弁してよ、などと言いながら床に脱ぎ捨てた服に素早く着替えてそそくさと部屋を出ていった。
残されたのはようやく目を覚ました二日酔いで裸の間抜けな男と、その場に立ち竦んだままの男。
ジュンミョンは窓から差し込む朝日を浴びながら、何も言葉を発することなく、虚ろな瞳でセフンの方を見つめていた。ジュンミョンの目の下には濃いクマが見え、疲れたはてた顔をしていた。
セフンは何も言えなかった。
その生気のない顔にきらりと一筋光るものが流れ落ちるのを見たからだ。
それはセフンが見た初めてのジュンミョンの涙だった。


あれから、セフンはパチンコ店に来ていた。
パチンコ屋が開店するまで近くの公園のベンチで時間を潰し、開店と同時に駅前の店に滑り込んで、重たい腰を下ろした。
くわえ煙草で液晶画面を見つめ、ハンドルを握りしめる。店内のけたたましい騒音も先ほどのジュンミョンの姿ばかりが過ぎり何ひとつ聞こえてこなかった。

あの後、ようやく悪かったと口にしたセフンに、床に散らばった朝食になるはずだったものを片付けながら、休みたいから一人にしてくれと言ったジュンミョン。話をしたいと言っても頼むから!と強く言われてしまって、セフンはそのまま追い出されるように外に出た。
今までどんなにセフンが遊び呆けていてもジュンミョンは何も咎めることなく受け入れてくれていた。
さすがに自分達が住む部屋に遊び相手を連れ込むことは初めてだったけれど、ジュンミョンなら…ジュンミョンならきっと許してくれるに違いない…胸騒ぎをおぼえつつも、この時はまだそう思っていた。

そんな風に心ここに在らずの状態でぼうっと台の前に座っていたらかなりの時間が経ち、時計を見ると夕方近くになっていた。
もうこの時間ならジュンミョンは次の仕事に行っている時間だ。足取りは自然と重たくなったが、セフンは景品の僅かな菓子を手にアパートに戻った。

アパートに戻ると思った通り、ジュンミョンは仕事に行った後だった。
がらんとした部屋にほんの僅かに食欲をそそる香りが鼻をつく。ゴミ箱を見ると、容器がふたつ捨ててあって、今朝の光景が蘇った。今朝ジュンミョンは、家で何が起きてるのかも知らずにセフンの分の朝食も買って帰ってきたのだった。

テーブルの上には床に散らばらずに済んだらしい少し形の崩れたキンパがラップをして置いてあった。
その皿の下にメモが置かれているのが目に入り、セフンはその小さな紙を抜き取った。そこには整った字でこう書かれていた。

『もうこの家には戻りません。家賃は3ヶ月分先払いしてあります。その間に住む家を探してください。必要な荷物は持って出ているので、残りの荷物は適当に処分してください。それから、もう過ぎてしまったけれど……誕生日おめでとう』

おととい、昨日の残りだと言って出されたおかずがセフンの好物ばかりだった理由に今更気が付く。帰らなかったあの日は自分の誕生日だったのだ。
セフンはキンパの横に不自然に置かれていた綺麗な箱を手に取って、包装紙を剥がし、箱の蓋を開けた。そこには腕時計が入っていた。
自分には守らなければいけない時間も、時間を守りますというアピールも必要ない。
そんな、セフンに似つかわしいとはとても思えない物を、ジュンミョンはどういう気持ちで選んだのだろうか?ジュンミョンはセフンに、この時計が必要になるような男になってほしいと思っていたのだろうか?
ろくに働きもしないヒモ男ではなく、甲斐性のある男に……

セフンは頽れるようにしてその場に座り込み、天を仰いだ。
目を瞑ると自分が今までジュンミョンにしてきたことが次々と頭の中を駆け巡っていく。

セフンはいつも外での浮気の痕跡を隠そうとしなかった。相手の香水の香りを身に纏わせ、口紅がついたシャツを着て帰る……わざと隠さなかった。どこかでジュンミョンのことを試しているところがあった。これでも大丈夫。まだ許してくれる。よかった、自分は見放されたりしない……そんな風に自分へ向けられる愛情を測っているところがあった。
まともに働かないのも、こんな自分であればジュンミョンは自分の世話を焼き続けてくれるとどこかでそんな風に思っている節があったからだった。

こうして薄暗い部屋で一人きりでいると、子供の頃を思い出す。
セフンの母親は、子供の頃セフンを置いて出て行った。あの日もこうしてひとり薄暗い部屋で母親の帰りを待っていた。けれど、母親は二度とセフンのもとには帰ってこなかった。父親は顔すら知らない。

母親が出て行ってからずっとセフンの心は満たされないまま寂しさだけが静かに堆積していった。
そして、知らぬ間にジュンミョンに母親像を求めるようになっていた。
自分を捨てた母親には与えてもらえなかった無償の愛をジュンミョンから搾り取ろうとしていた。ジュンミョンは母親ではない。仮に本当の母親だったとしても、母親も一人の人間に過ぎない。怒りもすれば、傷付きもする。それなのに相手の感情を無視して、自分の願望を押し付けてしまっていた。ジュンミョンはあの小さな体に悲しみや怒りを限界まで溜め込んで、セフンが男を家に連れ込んだことでついにそれが決壊してしまったのだろう。手紙の最後にはこう書かれていた。『本当にごめん……セフンと一緒にいるのがつらい……もう疲れた』と。こうなったのは当然の報いだった。

「馬鹿じゃねぇーの……っ」

セフンは腕時計を強く握りしめた。
涙で震えた声が狭い部屋に虚しく響いた。
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