セジュン

□遅咲きの花〜結実〜【前編】
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物分かりの良いふりをした。
傷付いていないふりをした。
僕はいつだって本当の自分をさらけ出すのが怖かった。





ジュンミョンの母親は、彼が小学校三年生のときに、長い闘病生活の末に亡くなった。

———ジュンミョン君はしっかりしててえらいね。
———ジュンミョン君は本当にいい子だね。
———ジュンミョン君なら大丈夫。
———ジュンミョン君は立派だ。

母親が長年入院していたため、ほぼ父子家庭のような環境に置かれているジュンミョンを、周囲の大人たちは手放しで褒めた。それは家族である父親も同じだった。

「じゃあ、行ってくるな。ジュンミョンはえらいな、しっかりしてるから父さんは本当に助けられてるよ」

7歳の誕生日の夜は一緒に過ごそうと約束していた。それなのに父に急遽仕事が入ってしまい、叶わなくなった。
ジュンミョンは父を責めなかった。決して怒らず、泣き言のひとつも言わずに玄関先まで父を見送りに出ると、満足げな顔で頭を撫でられる。
でも父は知らない。笑顔で『いってらっしゃい』と手を振り扉が閉まったあと、ジュンミョンの涙が止まらなくなったことを。
ジュンミョンは本当はとても悲しかった。どうしてぼくを置いて仕事に行っちゃうの?一緒にお祝いしてくれるんじゃなかったの?どうして、ぼくはいつも一人なの?ねぇ、どうして……?
ジュンミョンは、周りが言うような大人びた子供では決してなかった。わがままで、親に甘えたい普通の子供だったのだ。
それなのに、親を困らせたくなくて、疎まれたくなくて、そんな本来の自分を見せることができなかっただけだった。
本当のジュンミョンは、忙しい父親にかまってもらえない寂しさや、入院している母親が家にいない寂しさ、もしかしたらもう二度と母親は家には帰って来ないのではないかという恐怖でいつも胸が張り裂けそうな思いだった。

そんなジュンミョンにも唯一楽しみがあった。それは祖父母の家を訪れることだ。
祖父母は二人とも草花が大好きで、家の庭はいつも綺麗に手入れ、季節の花々が咲き乱れていた。
ジュンミョンは祖父母の家に行くと決まって二人と一緒に土いじりに興じた。
温和でいつも微笑みを浮かべている祖父母と、美しい色とりどりの花々に囲まれている時間は何物にも代え難いほど楽しく、そして何より祖父母の前では本来の子どもらしくいられることがこの上なく幸せだった。
祖父母の家では強がる必要も、しっかり者である必要もない。子供としてたっぷり甘えやかされ、可愛がってもらい、自分だけに構ってもらえる。しかし、そんなジュンミョンの心を満たしてくれた祖父母も、ジュンミョンが小学校に入学して早々に二人相次いで亡くなってしまったのだった。
祖父母はもうこの世にいない。しかも、妻の治療費でとても生活に余裕があるとは言えなかった父は、あの三人で手入れした庭のある家を売りに出してしまった……ジュンミョンの胸には悲しみや寂しさが渦巻いていたけれど、そんなときでさえ見舞った母の前では無邪気に明るく振る舞い、仕事と妻の看病、尚且つ息子の世話で疲弊しきっている父親に、そんな気持ちを打ち明けることは出来なかった。
ジュンミョンはどうしても辛くなると、一人きり部屋でひっそり泣いた。
泣いているときに父親が帰ってくれば、急いで涙を拭い、睫毛は濡れていないか、目が赤くなってはいないかと、鏡の中の自分の顔に泣いていた痕跡は残っていないかをしっかり確かめ、何食わぬ顔で父親を出迎えたのだった。


そんな生活が4年ほど続いていたある日、母親が退院して家に帰って来ることになった。
幼いジュンミョンはとても喜んだ。けれどそれは、母親がもう長くはないことを意味していた。

「ジュンミョナ……」

母が膝の上に乗せた息子の名をか細い声で呼ぶ。呼びながら痩せて骨張った手は何度も優しくジュンミョンの頭を撫でていた。
ジュンミョンは母の腕の中でこの瞬間の幸せを噛み締めていた。母の腕にもたれ掛かり見上げると、母の痩せこけた顔にゆったりと慈愛に満ちた微笑みが浮ぶ。その唇は白くかさつき、潤いが失われていた。

「おかあさん、ちょっと待っててっ!」

ジュンミョンはベッドの上から飛び降りた。母に褒めてもらいたい。たくさん笑ってほしい。喜んでほしい……
ジュンミョンは急いでキッチンに向かい、冷蔵庫を開いてオレンジジュースを取り出した。
母親は家に帰って来てこの2日、ろくに食事を摂っていなかった。聞くと、ほとんど固形物は食べられないらしいのだが、水分なら大丈夫だと言う。
きっと母さんは喉がカラカラのはずだ。それなら、このオレンジジュースをきっと喜んでくれるに違いない。彼女はフルーツが大好きだし、このオレンジジュースはジュンミョンのお気に入りで味は折り紙付きなのだ。
ジュンミョンは食器棚からグラスを取り出すと、とくとくとオレンジジュースを注いだ。冷蔵庫に少々乱暴にパックをしまい、扉を投げるように閉め、グラス片手に駆け出す。

「おかあさんっ!」

まぁ、おかあさんためにジュースを持ってきてくれたの?嬉しいわ———走りながら、そう言って喜んでくれる母親の笑顔が浮かぶ。きっと母は喜んでくれる。褒めてくれる。ありがとうと笑ってくれる。
考えるだけで口もとがゆるんだ。早く母の笑顔が見たくて、キッチンから母親のところまでのわずかな距離ももどかしく感じながらリビングをパタパタと駆け抜ける。
オレンジジュースがこぼれないように慎重に部屋の扉を開くと、グラスを睨みつけていた視線をすっと上げ「はいっ!」と、威勢よく宙に向かってグラスを突き出した。

「あれ?おかあさん……?」

母はベッドに仰向けに寝ており、返事がなかった。待たせぬように急いだつもりだったが、その間に眠ってしまったのだろうか……?そんな風に考えていると、ものの数秒もしない間に荒い呼吸音が部屋に響き渡りはじめた。
ジュンミョンが訳がわからず当惑し部屋の入口で立ち尽くしていると、隣の部屋で電話をしていた父親が通話を終え部屋に入って来た。

「イルファ!」

父親はジュンミョンの隣を一目散にすり抜け、足をもつれさせながらベッドに駆け寄った。母の肩を掴んで揺すり、何度も繰り返し母の名前を叫ぶ。
ジュンミョンは、こんな取り乱す父を見たことがなかった。少し気弱で優しい父は、普段は感情を顕にすることはあまりなくいつも穏やかな人だからだ。その父が臆面もなく泣き叫んでいる。父の背中越しには口をパクパクと動かしている苦しそうな母の姿が見えた。
一体何が起こっているのか。わからないけれど、なんだかとても恐ろしい。ジュンミョンの手はぶるぶると震え出し、手の中のオレンジジュースはこぼれてしまいそうなほど大きく揺れた。

「おかあさん…おかあさん……」

やっとのことで声が漏れ出た。おかあさん、のど乾いてるでしょ?ぼくね、おかあさんにオレンジジュース持って来たんだよ……
ジュンミョンはゆっくりゆっくり、まるで電池の切れかけたおもちゃのように一歩一歩ぎこちなく母に歩み寄る。ほんの数歩先のベッドまでが恐ろしく遠く、やっと母親の顔を目の前にする頃には全身に嫌な汗が浮かび、指先が白くなるほどグラスを握りしめていた。父親がやっと息子の存在を思い出したかのようにこちらを振り返る。

「……ジュンミョナ、お母さんに声を掛けてあげなさい……」

父はズズっと鼻を啜り、大きく深呼吸したかと思うと、必死に何かを堪えるような調子でぼそりと呟いた。
呆然と立ち尽くすことしか出来ないジュンミョンの肩に父の手が触れ、そっとグラスを取り上げられる。
ジュンミョンの体は強張りきっていた。グラスを持つ手の形のまま母親の顔を覗き込む。
母の口はずっとパクパクと動き続けていた。
恐る恐る顔を近づけてみると、微かな息と一緒に声が聞こえた。何かを必死にしゃべっている。それに気づいた瞬間、体の硬直がとけ、ジュンミョンの瞳にぶわっと涙があふれ出した。

「おっ、おかあさんっ!!」

「ジュン…ミョナ……、は、……でいいの……よ…」

「なに?なに!おかあさんっ!おかあさんっ!」

ジュンミョンは小さな手で布団をぎゅっと掴み、上半身をベッドに乗り上げ必死で母の口もとに耳を寄せた。微かな息が耳朶をくすぐったあと、また母が話し出す。

「あな……まま……で、……のよ…あり……まの……たを……あ……てる…よ……」

「おかあさんっ!聞こえないよっ!おかあさんっ!」

母の腕を掴んで揺する。ゆすってもゆすっても、苦しそうな息遣いが聞こえてくるだけで、もう声は聞こえない。そのうち胸が大きく上下し、あんぐり口が開いて、深い洞窟のような口内が覗いた。そして二、三度バキュームのような一際大きな呼吸をしたかと思うと、それきり息遣いさえも聞こえなくなった。

「おかあさん……?おかあさんっ……!!」

おかあさん死んじゃうの?ぼくを置いていくの?ねぇ、おかあさん!いやだ!いやだよ!!
ジュンミョンは母の肩口に顔を埋め泣き叫んだ。どんなに泣き叫び母を呼んでも、もう二度と母があの優しい笑顔を向けてくれることはなかった。






「兄さん、大丈夫?」

「あ、ジョンイン来てたの?」

母親の死から3年後、父は連れ子のいる女性と再婚した。一人っ子だったジュンミョンに3歳年下の弟ができた。

「もぅ!来てたの?じゃないよっ!さっきからボーっとしちゃってさぁ、ほら、自分の足元見てみなよ?水たまりになってるよ!」

見ると、店前の鉢物に遣るはずのジョウロの水が肝心の植物には与えられず、ジョンインが言う通りそこだけ大雨が降ったみたいに地面に流れ出していた。右手にだらりとぶら下がったジョウロはもう空っぽになってしまっている。

「また水汲んでこなくちゃ……」

「いいよ、俺がやる。兄さんは他の仕事しなよ」

ジョンインは自分の仕事が休みの日にこうして店を手伝いにきてくれている。
ジュンミョンが何年も仕事を掛け持ちしながら開店資金を貯め、ようやく1年前にオープンさせた花屋。ジョンインはジュンミョンが店を一人で切り盛りすることを知ると、一も二もなく手伝うと言ってくれたのだった。
開店してすぐは思うように売り上げが伸びず、ジョンインをほとんどタダで働かせてしまうような状態だった。ジョンインは最初からお金なんて望んではなかったが、それではあまりに心苦しく、そういうわけにはいかないと頑として譲らずにいると、『じゃあ、毎週兄さんの都合のいい日に必ず一緒に食事して。それが俺の給料』と言われてしまった。しかし、その食事というのもジョンインが手ずから用意するのだから、何の礼にもなっていないのが現実だ。本当に自分にはもったいないくらいにいい弟だと思う。
ジョンインはジュンミョンに昔からとても懐いてくれていた。自分のことをとても慕ってくれていると思う。けれどジュンミョンは彼が慕ってくれている自分は『本当の自分』ではないという思いがいつも心の底にこびりつき拭うことができなかった。

ジュンミョンは母が亡くなり、新しい家族と暮らすようになってからも手のかからない“いい子”であり続けた。
真面目に勉強し、わがままや弱音は吐かず、家のことも率先して手伝い、弟の面倒を見て、父の言うことに従順に従い、義母の愚痴の聞き役になった。それは父親に迷惑をかけたくない、新しい家族に嫌われたくない、その一心でしたことだった。 
その努力は、ちゃんとジュンミョンに成果となってかえってきた。父には喜ばれ、新しい母には褒められ、弟のジョンインにも慕われて……でも本当の自分は彼らが思っているような人間じゃないといつも心のどこかで思っていた。彼らが評価しているのは偽りの自分だと。
本当の自分はしっかり者なんかじゃないし、物臭な人間だ。打算的で優しくもない。わがままだし、甘えたがりで、嫉妬深い。それに、その上自分は女性を愛せない……
ジュンミョンは、他人に望まれる理想の人間を演じているうちに、本来の自分を他人に知られることが恐ろしくなった。だって、知られてしまえばきっと幻滅されてしまう。
きっとこれからも自分は嫌われるのを恐れて、彼らが好いてくれる、彼らが求める自分であり続けることしかできない。これまでも、これからも誰も本当の自分を知ることはきっとない。

ジュンミョンは水遣りをジョンインにまかせて店の中に引っ込むと、注文を受けていた花束の準備に取り掛かった。
春は出会いの季節でもあるが別れの季節でもある。有難いことに送別会や退職祝い用の花束の注文がいくつか入っていた。
今日仕上げる花束はイエロー系でまとめてほしいと言われているので、それ用に今朝仕入れたばかりの花を選別していく。ジュンミョンは花束をつくる上で、送り主の気持ちがちゃんと花束を受け取る相手に届くよう、喜んでもらえるよう、目には見えなくても真心を込めてつくろうと常に思っている。
けれど、今日はそんな花屋としての矜持も保てそうになかった。脳裏に彼の面影がちらついて、鮮やかな黄色が目の前を上滑りしてしまう。

昨日、店先でその彼、セフンに似ている人を見かけたのだ。遠かったし後ろ姿だったが、本当にセフンによく似ていた。
あのスーツ姿の人が本当にセフンだったのなら、きっと今はちゃんと働きに出ているのだろう。セフンは元気にやっているのだろうか……
ジュンミョンは朝からずっとセフンのことばかりを考えてしまい、情けないほど上の空になってしまっていた。
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