セジュン

□世界でいちばん好きな人
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「もう、うんざりだ……お前には付き合ってられない」

自分たち以外はみんな帰ってしまった夜のオフィスで、日頃は温厚な上司であり恋人でもあるキム・ジュンミョンの顔が苦々しく歪んだ。
セフンはいつまでも片付かない仕事をさっさっと終わらせるためパソコンを睨みつけていた視線を彼の方へ移した。ジュンミョンは腰に手を当てうんざりした様子でセフンのデスクの横に立ち、見下ろして続ける。

「もう俺たち別れよう」

「はっ?」

てっきり残業に付き合わせたことを言っているのかと思っていたセフンは驚愕する。別れる……?今、この人別れるって言ったの?どうして急にそんなこと言い出すんだよ……?

「急になに言い出すんだよ、別れたいって何?俺なんか悪いことした?」

ねぇ!と、セフンは必死の形相でジュンミョンのスーツの上着に取り縋って訊ねる。ジュンミョンは長いため息を吐いたあと、噛んで含めるようにゆっくり話し出す。

「悪いことな……俺はもっと仕事ができる奴と付き合いたい。それに俺が頼って甘えられるような大人の男がいいんだよ」

「そんなこと始めからわかってたことだろっ!なんで今さらそんなこと言うんだよっ!」

セフンは激昂した。だってあんまりじゃないか。新卒で入社して部下と上司として出会って、あなたが直接俺に仕事教えてくれたんだ。ずっとそばで見てきて俺の要領の悪さはあなたが一番承知してるはずじゃないか。俺が8歳も年下の青臭いガキだってことも最初からわかってたじゃないか。それでも俺が恋人になってほしいって言ったら、嬉しいって笑って受け入れてくれたくせに……どうして、そんなこと言うんだよ……っ!

「それは悪い……最初は年下も可愛くていいなと思ったんだよ。でも、付き合ってみたら疲れるっていうかさ……俺には合わないよ」

「なんだよ、それっ!ふざけんなっ!」

セフンは勢いよく立ち上がった。その拍子にキャスター付きの椅子が転がり壁にぶつかって大きな衝撃音を立てる。感情が激しく昂って声は震えていた。目の奥が熱くなってジュンミョンの顔が涙で霞む。

「俺、そんなんじゃ納得できないから」

セフンが決然と睨みつけて言うと、残酷なまでに平然としていた男の瞳が一瞬揺れたような気がした。

「すまない……でも、もう気持ちは変わらないから」

ジュンミョンはセフンを見上げて言う。セフンはジュンミョンの心苦しそうな表情に息が詰まった。彼はもう固く決意してしまっている、本気なんだ……セフンは堪えきれずにとうとう涙がこぼれた。こんなに好きなのに。ジュンミョンしか見えないのに。仕事が出来る出来ないとか、年下だとか、あなたにとって俺はその程度だったのかよ……
セフンはカバンを引っ掴んでオフィスを出た。肌を刺すような風が濡れた頬に吹きつける。足早に駅に向かって街を歩いていると周りの人たちが随分暖かい恰好に見えた。それに比べて自分の体は軽く、冷気が容赦なく体を包む気がする。そうか、コートをオフィスに忘れてきてしまったのか……でも、そんなことどうでもいい。いい大人の男が泣きながら街を歩いていることもどうでもいい。無様だろ?笑いたきゃ笑え。俺は世界でいちばん大好きな人に振られたんだ。笑いたきゃ笑えよ……セフンは乱暴に手のひらで涙を拭い人混みのなかを駅へと急いだ。




ゆうべはろくに眠れなかった。
考えれば考えるほど、腹が立って、悲しくて。最後は自分に腹が立った。どうして俺は要領が悪いんだろう。どうしてジュンミョンに頼られるような男じゃないんだろう……とめどなくあふれる怒りや後悔の合間にジュンミョンの柔和な微笑みがちらつく。腕の中に抱きしめたときの自分を見つめる、淡く頬を染めた気恥ずかしそうな顔が浮かぶ。自分を呼ぶ、泣きたいくらい優しくてあたたかい声が頭にこだまする……思い出せば思い出すほど悲しくて、結局は誰よりも好きだという気持ちに着地する。
やっぱり諦められない。それが考えに考えた末の結論だった。

早朝、オフィス街を歩く足取りは重く、おまけに忘れてきたコートの代わりになるものなど持っていないので仕方なくスーツだけで家を出たら、とてつもなく寒かった。会社になんて行きたくない。このまま家に帰ってやろうかと半分本気で考える。けれど、セフンはいつもより早めにオフィスに向かった。昨日、オフィスを飛び出して仕事を途中で放り出してしまったからだ。ジュンミョンに振り向いてもらうためにも仕事で結果を出さなくてはいけない。それなのに仕事を完遂しないなんて以ての外だった。
早朝の事務所はまだ誰も出勤していなかった。取るものも取り敢えず暖房を入れ、席につく。パソコンを起動し、ふとデスクの上を見ると昨日まではなかったファイルが置かれていた。中身をめくるとセフンの仕事に必要な資料が入っていた。きちんと整理されていてとても見やすい資料はひと目でセフンのために手間をかけてくれたことがわかる。こんなことをしてくれるのはジュンミョンしかいない。きっとあの後、用意してくれたんだ……今までだったら申し訳なくも嬉しかったその厚意がセフンを情けなくさせた。きっと、こういう積み重ねがジュンミョンを疲れさせ、自分に嫌気がさす原因になったのだと思うと悲しくなる。でも、落ち込んでばかりもいられない。俺はジュンミョンに振り向いてもらえるよな男になるのだから……


出勤してきたジュンミョンはいつもと何も変わらなかった。温厚で穏やかな部下思いの優しい上司。セフンに対する態度も落ち着いたものだった。

「セフン君、お願いしてたものはどうなったかな」

「はい……」

セフンは始業時間までになんとか仕上げた書類をジュンミョンのデスクに差し出す。

「あの、資料……すごく、助かりました。ありがとうございます」

セフンがたどたどしく礼を言うと、ジュンミョンは手元の書類に目を落としてセフンの方を見もせずに答える。

「あぁ、あれね。前年の資料を少しいじっただけのやつだから気にしなくていいよ」

ジュンミョンは素気無く言い、あいかわらず黙って書類に目を通している。セフンはジュンミョンをじっと食い入るように見つめ、思い切って口を開く。

「あの、今日仕事のあとでお時間いただけないでしょうか」

「……どうして?」

ジュンミョンがそこでようやく顔を上げた。言葉も表情もあまりにも冷たくて思わず怯んでしまいそうになる。

「どうしてもお話したいことがあるからです」

セフンはジュンミョンの冷ややかな目に負けないように毅然として言った。

「僕にはないんだけどね……ミニョン君!これ至急営業部に持っていってくれないか!」

そばを通りかかった女子社員にジュンミョンが呼びかける。呼ばれた女子社員が小走りにこちらへ駆け寄ってくる。

「お願いね」

「はい、わかりました」

「課長っ!」

セフンが女子社員とジュンミョンのやりとりに割って入る。ジュンミョンから書類を託かった女子社員は怪訝な顔でセフンを見ながらデスクを離れた。

「もう用は済んだだろう?早く席に戻りなさい」

「まだ先程の返事をいただいていません」

ジュンミョンはまた別の書類を睨みこちらに目もくれない。セフンは強く拳を握りしめた。ジュンミョンはセフンの言葉を受けてゆっくりと顔を上げる。

「そうか、さっきのじゃ返事にならないか……僕は忙しくて君に割くような時間はない。これでいいかな?」

ジュンミョンは濁りのない真っ直ぐな目で残酷に言い切った。



それからも仕事上のやりとりはしてくれるが、それ以外の話をしようとするととことんジュンミョンに避けられた。
セフンがジュンミョンと話がしたくて仕事終わりに待ち伏せてもうまくかわされ、家を訪ねても空振りで、電話にもメールにも全く応答してもらえない。そんなジュンミョンの態度にさすがにおとなげないんじゃないかとも思ったが、それだけ自分は嫌がられているのかもしれないと思うと日を重ねるごとにどんどん落ち込んでいった。もう無理なのかもしれない……別れ話を切り出されてから2週間、せめて仕事で成果を出したいと思って頑張ってはいるが精神的にかなりきつかった。

そんななか部長に誘われた食事の席。セフンははっきり言って全く気乗りしなかったが、部長から神妙な面持ちで「君のこれからのことで大事な話がある」と言われてしまえば断れるはずがなかった。わざわざ会社の外でしないといけない話とは一体なんなのか?全く見当もつかないが、もし解雇されるとかいうことならば、いっそそうしてくれと思った。これ以上、ジュンミョンがそばにいるのに手の届かない遠い人のように感じるのはあまりにも辛かった。
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