他メンバー

□風のように
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「ベッキョナ!」

ビョン・ベッキョンが自分を呼ぶその声に振り向くと、梅雨の晴れ間の深い濃色の青空を背にしてパク・チャニョルが立っていた。
幼さよりも精悍さが増してきた清涼な面差しに控えめな笑みが浮かび、長身の程よく筋肉質な体にベッキョンと同じ制服が纏われている。

ベッキョンは思わず目を伏せた。
なぜか胸が引き絞られるように苦しい気がして、チャニョルを見つめていられなかった。
そんなベッキョンの様子に全く気付くこともないチャニョルは無邪気に聞いてくる。

「こんなとこで何してんの?」

「見りゃわかるだろ、誰かさんと違って学校の帰りだよ」

「もう、言い方に棘あるなぁ」

チャニョルはベッキョンの言葉に困ったように笑う。
チャニョルとは中等部からの付き合いだが、
ベッキョンはチャニョルが怒ったところを一度も見たことがなかった。

チャニョルは中2の夏の終わりに母親を亡くした。
父親が大手企業の経営者であるチャニョルは、世間的に見ればとても裕福な暮らしを送る恵まれた人間だった。
でも、恵まれていたのはあくまでも金銭面だけのことだったのかもしれなかった。
病弱で入退院を繰り返す母親と、多忙で家を空けることの多い父親。
チャニョルは広い屋敷でたったひとり過ごす日々をたくさん重ねてきたに違いなかった。

チャニョルは母親が亡くなったのを境に不良達と付き合うようになった。

学校にも来なくなってしまったチャニョルに会うため、ベッキョンは何度もチャニョルの家を訪ねたが、その度インターフォン越しに家政婦から愛想なく不在を告げられるだけだった。

ある日、ベッキョンはチャニョルの帰りを待つことにした。立派な門の隣で小さく蹲る。
季節は秋だった。とは言っても、それは暦上だけのもので、その年のソウルの秋の爽やかさは一瞬で通り過ぎ、あっという間に冬のような寒さが押し寄せていた。

いつの間にか辺りはすっかり暗くなっていた。
地面に蹲って芯まで冷え切った体を抱えながら、頭上で光っている門灯の弱い光をぼんやりと眺めていると、視界の端に見覚えのあるシルエットを捉えた。チャニョルだった。

「…何してるの?」
「お前のこと待ってた」
チャニョルの瞳が僅かに見開かれる。

「…学校来いよ、お前がいないと寂しいじゃんか」

言葉と一緒に白い息が漏れる。
言いたいことはたくさんあったような気がしたが、いちばん伝えたかったことだけを伝えた。お前がいなかったら寂しい、と。
そして、チャニョルを一心に見つめた。すると、チャニョルの端正な顔がくしゃりと歪んでいった。
ベッキョンがチャニョルの両手を握りしめ「な?約束だぞ?」と言うと、チャニョルは俯いたままゆっくり頷いた。

それから、チャニョルは学校に来るようになったが、不良達との付き合いをやめることはなかった。

不良たちと付き合っていくうちにチャニョルは変わっていった。
自分のことを僕とは呼ばず、俺と呼ぶようになった。
同様に話し方も“俺”に相応しいものに変わり、風貌も不良じみていった。
チャニョルが付き合っている不良達は札付きで、暴力沙汰で警察の世話になることもざらだった。
でも、ベッキョンの知るチャニョルの点と点はどうしても粗暴なことに繋がっていかない。
ベッキョンにとってチャニョルは昔から何も変わらないから。
繊細で、優しすぎるくらいに優しくて、他人を傷つけたりすることなんて決して望まない。もし、人を傷つけてしまったなら、チャニョル自身が一番傷つく。

だからこそ、ベッキョンはチャニョルに何も言わずにはいられなかった。


「チャニョル、今日早退しただろ?またアイツらといたのかよ?」 

チャニョルは無事に高等部へ進級したものの、学校に登校するのは気まぐれになり、もうチャニョルの家を訪ねても不良仲間の家に居候しているらしいチャニョルには会えなくなってしまっていた。
こうやってチャニョルと顔を合わすのも何日ぶりかわからない。
それなのに教師達はというと、学校がチャニョルの父親から多額の寄付金をもらっている手前、息子のチャニョルの現状をほぼ黙認状態だった。
ベッキョンはそんなチャニョルが置かれている状況が切なく、そして歯痒かった。

「ん?そんなに俺と授業受けたかった?」

「っお前な…!」

そこに少し離れた所から華やかに笑いさざめく声が響いた。
ベッキョンが賑やかな声の方へ思わず目を遣ると、学校帰りの女子生徒達が車道を挟んで反対側の道をこちらに向かって歩いて来るのが見える。
その女子生徒の集団の中にキム・ヨニの姿を認めて眺めていると、チャニョルもベッキョンに釣られるようにそちらへ目を向けた。チャニョルは彼女らに視線を向けたまま尋ねた。

「ベッキョナ…キム・ヨニと付き合うことにしたのか?」

ベッキョンは1ヶ月程前に同じクラスのキム・ヨニに告白された。
校舎裏の桜の木の下で、頬をほんのり薄紅色に染めて目を伏せ、ベッキョンへの想いを紡ぐ彼女。
ベッキョンはその間中どこか上の空で、彼女の幅広の二重と長い睫毛、ほんの僅かに上がった目尻を見つめることだけに集中していた。
だから、申し訳ないくらいに彼女が切々と述べた告白は覚えていない。

彼女は想いを述べ終えると、意を決したようにベッキョンを見上げた。
そこで漸く、それまで熱心にベッキョンが見つめていたその大きな瞳と目が合った。
その瞬間、まるで脳の回路を通されていないような無意識のレベルで、ベッキョンは「いいよ」と返事をし、付き合うことを了承していたのだった。

別に彼女の告白に心が動いたわけでも、彼女に惹かれたわけでもなかった。
正直、彼女を好きなのかと聞かれても答えられない。
ただ彼女の瞳が、自分でも説明することができない心の奥底の感情を疼かせる気がしたのだった。


「…おう」

まともに登校していないチャニョルが、なぜそのことを知っているのだろう。
そして、今この瞬間、なぜ胸に痛みが走るのだろう…

ベッキョンは目の前に立つチャニョルをそっと見上げた。
中等部で知り合ってから、みるみる伸びていった立派な長躯。端整な面立ち。

微風が、その顔に僅かにかかる前髪をさやさやと持ち上げ、小さな輪郭に収まった目顔を露わにさせた。

ベッキョンが付き合うことにしたと返事をしたとき、チャニョルの表情が翳ったように見えたのは気のせいなのだろうか…

二人の間に、束の間の沈黙が降り、
街路樹の若葉が波立つように揺れる葉音だけが聞こえていた。

とても長く感じたほんの数秒の沈黙を破ぶろうとしたのはチャニョルだった。
徐に言葉を発しようとその口が開く。

その時だった。
突然、耳をつんざくようなバイクのエンジン音が辺りに鳴り渡ったのは。


「……じゃあ、俺そろそろ行くわ」

チャニョルは一度開きかけた口を引き結んでから再度口を開くと、ベッキョンにそう告げた。
そして、颯爽とガードレールを飛び越えて仲間のいる反対車線の方へ走っていく。


「チャニョルっ…!」

気が付いたら叫んでいた。
遠ざかっていく背中に、何か急き立てられるようにして。
潤んだようなその叫び声は、バイクのエンジン音の轟きに虚しく掻き消されていく。

堪らずベッキョンがガードレールに手を掛けた時、バイクの後部座席に跨るチャニョルがこちらを振り返り、軽く右手を上げた。

ベッキョンはどうしてかその姿に胸が焼けるような気持ちになり、瞬く間にチャニョルを行かせたくないという強い衝動が胸を突いた。

行くな、チャニョル
俺と一緒にいよう

けれど、チャニョルはもうこちらを向いていなかった。
バイクは轟音を響かせながら走り去っていく。

ベッキョンはバイクが走り去った後もしばらくその場に呆然と立ち尽くした。

空にはいつの間にか雨雲が忍び寄っていた。









その日、夢を見た。

ベッキョンは自分の部屋のベッドで横になっていて、
カーテンの隙間から洩れる月明かりが部屋を青白く染めている。

夢の中でベッキョンの目は閉じられているが、
ベッドが大きく沈んだことで、
自分の隣に誰かが腰掛けたことが分かった。

その人はベッキョンの頭にそっと手を置くと、優しく撫ではじめた。

ゆっくり、何度も、何度も。

その温かい手に触れられる度、
なぜか胸が一杯になって、涙が溢れそうになる。

ずっと、そうしてほしいと思った。


そのうちに、
だんだんと朧げにあった意識が遠のいていく。


「ベッキョナ」


薄れゆく意識の中、
名前を呼ばれたような気がした。

ベッキョンの瞳からは、とうとう涙が溢れ出した。









「昨晩、クラスメイトであるパク・チャニョルくんが交通事故に遭ってーーーー」

翌朝、ホームルームで担任の先生が沈痛な面持ちで語る言葉。
生徒達のざわめき。

その全ての音が遠ざかっていく。

そのうちに何もかも聞こえなくなった。











昨夜から降り続く雨の中、
チャニョルの自宅に大勢の生徒達が詰め掛けた。

響く読経と、線香の香り。
周りからは啜り泣く声が聞こえ、
同級生達が次々と焼香し、手を合わせていく。

ベッキョンには、その全てが遠い世界の出来事のように思えた。

どうやって自分がここまで来たのか、
どうして自分がここにいるのか、
頭の中に靄がかかったように何も考えられず、
知らない土地にひとり放り出されたような心細い気持ちでただ立ち尽くすことしか出来なかった。

「君、ビョン・ベッキョンくん…だね?」

その低い温かみのある声は自分の頭上から響いてきた。
長身の中年男性が自分の目の前に立っている。
その顔に見覚えがある気はしたが、自力では思い出せそうになかった。

「チャニョルの父です」

そうだ。
一瞬で昔チャニョルの家に行った時の記憶が蘇る。
まだチャニョルの母親が亡くなる前、チャニョルの父親は多忙でほとんど家にいなかったけれど、たまたま帰宅した時に一度だけ挨拶したことがあったのだ。

「これを…」

チャニョルの父親は徐にこちらへ手を伸ばし、ベッキョンの右手に何かを握らせた。
それから、そっとその手を両手で包んだ。

「…この私の行いが正しいのかどうかはわからない…でも、息子は…最後までこれを手放さなかったんだ…」

ベッキョンは訳がわからず立ちすくみチャニョルの父親の表情を窺った。
そこには困ったような笑みが浮かび、大きな瞳には涙の膜が張っている。
チャニョルの父親はベッキョンの手を包んでいた両手にほんの少し力を込めてからその手を放すと、人集りの方へ戻って行った。

チャニョルの父親が去った後、ベッキョンは自分の掌を見つめた。
掌の上に乗っていたのは見覚えのない二つ折りの黒い財布だった。
財布は僅かに湿り、表面には所々泥が跳ねたものが付いている。

心臓が嫌な感じで大きく鳴った。

ベッキョンは息を詰め、恐る恐るその二つ折りの財布を開いてみる。

開いてすぐにそれは目に飛び込んできた。

それと同時に、自分の前で焼香していた生徒が下がり、目の前の視界が開ける。

ベッキョンがゆっくり財布から顔を上げると、そこにはチャニョルの亡骸が横たわっていた。





財布の中には、
ベッキョンの写真が入っていた。

写真の中の自分は何がそんなに楽しいのか、
顔をくしゃくしゃにして笑っている。

写真はとっくに色褪せていた。
まるで長い間、財布の中にあったかのように。









ベッキョンはチャニョルの上に覆い被さるようにしてその亡骸を抱きしめた。

それから、悲鳴を上げた。

大声で泣き叫んだ。


周りの人間がその様子を息を呑んで見ている。
担任の教師が自分の元へ来たような気がする。
キム・ヨニもその場に居ただろう。
でも、そんなことは露程も気にならならなかった。




ある日の授業中、ベッキョンは居眠りしているチャニョルの寝顔を見つめていた。

午後の日差しの中で長い睫毛の影が落ち、
窓から吹く心地良い風がカーテンを踊らせ、チャニョルの柔らかな髪をゆらめかせていた。

チャニョルは、授業が終わった頃に目を覚ました。

重たそうな頭がゆっくり持ち上がったかと思えば、また机に突っ伏そうとしたチャニョルと目が合う。

するとチャニョルは顔を傾け、イタズラがバレた子供のような顔で笑った。


ベッキョンはあの瞬間、胸が甘く苦しかった。
それなのに、とても温かくて幸せでもあった。

いや、あの時だけじゃない。
いつもそうだった。
チャニョルの存在が、
チャニョルに引き起こされる感情の全てが、
甘く苦しいのに、
優しく温かかった。


ベッキョンはチャニョルの血の気のない土色の顔を見た瞬間、気が付いてしまった。
キム・ヨニにチャニョルの面影を重ねていたということを。
幅広の二重と長い睫毛、ほんの僅かに上がった目尻。
知らないうちに自分はチャニョルの瞳を追いかけていた。
チャニョルでなければ何の意味も無いというのにーーーーー


ベッキョンは横たわる冷たく硬い体にしがみついて叫び続けた。
降り続く激しい雨音もその悲痛な叫び声に掻き消されていく。

ベッキョンは心の中で何度も彼の名前を呼んだ。
チャニョラ、
チャニョラ、
チャニョラ…

いつまでも、呼び続けた。
いつまでも、いつまでも、いつまでも…
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