他メンバー
□風のように
2ページ/2ページ
「お食事はご用意してありますので、私はこれで失礼させていただきます」
中高一貫校に入学して早々、チャニョルは風邪を引いて寝込み、学校を休んでしまった。
昔から体は強くない。この虚弱な体質は母親に似てしまったのかもしれない。
チャニョルには、自分が幼い頃から入退院を繰り返す母親と過ごした記憶はほとんどなかった。
父親にしても同じだ。仕事で全国を飛び回る父親は家を空けることが多く、滅多に顔を合わせない。
交代制で数人の家政婦が常に家に居たが、皆あくまで仕事と割り切った態度でそこに温もりなどは感じられなかった。
中にはチャニョルしか家に居ない場合に怠慢さを隠さない人間も少なくなかった。
現にこうしてチャニョルが熱にうなされていても、顔色ひとつ変えずに定時よりも随分早く帰ってしまう。
チャニョルはベッドで臥せりながら天井を見つめた。目が涙で潤み視界がぼやけているのは熱のせいだ。決して寂しいからじゃない。一人でも何の問題もない。もう、こんな日々には慣れてしまったのだから―――
ピンポーン、ピンポーン。
部屋中に鳴り響くチャイムの音で目を覚ました。どうやら、自分はあのまま眠ってしまったらしい。
来客の対応は家政婦がしてくれるのだからこのまま寝ていようと思った瞬間、帰っていった家政婦の冷たい態度が思い出された。今この家に居るのは病人である自分だけだ。
チャニョルはベッドから体を起こした。
幸い少し眠ったおかげでまだ熱はあるものの、幾分体は楽になった気がした。
これならなんとか来客に対応出来そうだ。
ゆっくり体を引きずりながらリビングに向かいインターフォンの通話ボタンを押して答えると、映し出された小さな画面の中で少年の表情がわずかに強張った。
「ビョン・ベッキョンです。チャニョル君に届け物があって伺いました」
ビョン・ベッキョン…
チャニョルは数日前の記憶を辿ってゆく。
入学して最初のホームルーム。
クラスメイトの自己紹介。
窓際の一番前の席。
小柄で華奢な体躯。
「ビョン・ベッキョンと言います。特技はテコンドーです」
快活な口調。意外な特技。
「よろしく!」
花が満開に咲いたような笑顔…
インターフォンの画面の中の少年と、記憶の中の少年がひとつに重なる。
彼とは同じクラスではあったが、まだ入学してから間がないのと席が離れていることもあってまだまともに話したことがなかった。
チャニョルは門を開錠させると、来客を待たせぬよう懸命に玄関へ体を運んだ。
「わざわざありがとう」
ベッキョンが先生から託かってきたプリントを受け取る。ベッキョンはここから家が近いそうだ。
「寝てなくて大丈夫なの?」
「うん、大丈夫」
「俺、てっきりお手伝いさんとかが出てくるのかと思って緊張したよ」
ベッキョンは自己紹介のときの印象通りの明るい人好きのする笑顔を浮かべる。
「あぁ…普段ならそうだと思うんだけど、今日はもう帰っちゃったんだ」
「え?じゃあ今誰もいないの?」
「そうだよ」
何か変なことを言っただろうか?
ベッキョンから笑顔が消え、少し俯いて考えるような素振りを見せる。
「今日は本当ごめんね、わざわざ学校帰りに寄ってもらって、しかも玄関先で…本当はゆっくりしてもらいたいけど、ベッキョン君に風邪うつしちゃうと悪いからもうここで…」
「…ちょっと悪い」
「へ?」
ベッキョンは上がり框越しに腕をこちらに伸ばしてきた。
額にひやりと冷たい手が当てられる。
「やっぱり。まだ全然大丈夫じゃないじゃん。チャニョルの部屋どこ?」
お邪魔しますと言いながらベッキョンは家に上がり、辺りを見回す。
「ど、どうして、そう思ったの?」
チャニョルは不思議だった。
いつだって、自分が大丈夫だと言えば相手はそれを疑わない。実際、自分自身がいちばん大丈夫だと思ってる。今回だってそうだ。確かに熱はまだ下がりきっていないけれど、多少マシになったのは本当だったし、頑張れると思ったからもう大丈夫だと言ったのだ。それなのに、ベッキョンは「やっぱり、全然大丈夫じゃない」と言い切った。
「だって、見るからに大丈夫じゃないじゃん。頑張ってるじゃん」
ベッキョンはチャニョルの先に立ち、振り返って言った。
「ずっと壁に寄り掛かって立ってさ、本当は歩くのもやっとなんじゃないのか?それなのに、人にうつす心配までしてさ…チャニョルは今、熱があんだろ?それで今一人なんだろ?そんな時になんで人の心配してるんだよ。なんで大丈夫なんて言うんだよ」
優しく腕を掴まれる。
「調子悪いときに一人ってすげぇ心細いもんだよ。一人で頑張らなくていいんだよ。ごめんな、出迎えるのしんどかっただろ?早くチャニョルの部屋行こう」
それからベッキョンはチャニョルの体を支えて部屋に連れて行くと、ベッドに寝かせてくれ、家政婦が作った粥を温めて食べさせてくれた後、薬を飲ませてくれた。
そして、チャニョルが眠りにつくまでそばにいてくれた。
その日以来、不思議なことにチャニョルはよく体調を崩していたのが嘘のように体を壊さなくなった。
チャニョルは母親の葬儀の翌日、カツアゲに遭った。地元で有名な私立の制服を着ていたチャニョルは不良達にとって格好の標的だった。
金を持っていないとチャニョルが言うと男達に寄ってたかって殴られた。チャニョルが抵抗せず地面に倒れ込んだところで、漸く諦めて去って行く男達にチャニョルは言った。自分を仲間に入れてくれと。頭がおかしいと言われた。たった今、殴られてのびている人間が言うのだから無理もない。
でも、そんな自分を面白がってくれた先輩がいて可愛がってもらうようになった。
チャニョルは、自分や病床の母親を顧みることのなかった父親に抗いたかったのかもしれない。
何よりあの寒々しい家には帰りたくなかった。
不良仲間達はみんな自分と同じように家族の愛に飢えていて、家には居場所のない人間ばかりだった。
そんな彼らと一緒にいるのはとても気楽だった。
彼らと四六時中一緒に過ごし、何の未練もない学校を辞めてしまうことも出来たが、チャニョルはそうしなかった。
ベッキョンに会いたかったから。
チャニョルは自分は透明人間なんじゃないかと思っていた。
誰にも自分のことが見えていないから、誰もチャニョルのことを気にしない。
親も、教師も、自分のことなんて見てなどいなかった。
でも、ベッキョンだけは違った。
風邪で学校を休んだあの日、ひとりきりの自分のそばにずっといてくれた。
母親が亡くなったあと学校に行かなくなった時は、何度も家に会いに来てくれた。
寒い中、チャニョルの帰りを待っていてくれた。
高等部に上がってからも、ベッキョンがチャニョルの家を訪ねて来たり、人に聞いたりしてチャニョルを気にかけていたのを知っている。
病気の自分を労る眼差しも、
チャニョルが眠りにつくまで黙って本を読んでいた横顔も、
寒い中チャニョルを待ち続けて真っ赤になった手も、
あの花が咲いたような笑顔も、
そのすべてが瞼に焼き付いて離れない。
ベッキョンはいつもチャニョルの心の底にあるいちばん柔らかい部分に触れてくる。
一人で頑張らなくていいと言ってくれた。
お前がいなかったら寂しいと言ってくれた。
ベッキョンには自分の弱さを見抜かれてしまう。
チャニョルの心が求めている言葉を与えてくれる。
チャニョルの心の寂しさを掬い取り、温かく包んでくれる。
そんな人をどうやったら好きにならずにいられただろう?ーーー
ーーー気が付くとチャニョルは見知らぬ部屋のドアの前に立っていた。
けれど、不思議なくらいこのドアの先に誰がいるのか確信を持って分かっている。
そして、これがその人との別れになるということも。
ドアを開けると、窓際に置かれ月明かりに青白く照らされたベッドが目に入る。
そこに彼は横たわっていた。
チャニョルはゆっくりと彼に歩み寄り、ベッドに腰掛ける。
彼は安らかに眠り、小さく寝息を立てていた。
その寝顔を静かに見つめていると、愛おしさが胸いっぱいに広がっていく。
チャニョルは腕を伸ばし、彼の小さな頭に手をのせた。
その手を艶やかな髪の上で幾度も滑らせる。
「ベッキョナ」
その声は静寂の中で優しく響いた。
さようならは言わない。
またいつか必ず君に会いに来るから。
ありがとう。
君は僕の全てだった。
それは、これからも……
眠るベッキョンの瞳から宝石のように光る涙の雫がこぼれ落ちる。
チャニョルはベッキョンの額にそっと口づけを落とした。
そうして、チャニョルが満ち足りた穏やかな表情を浮かべながら、夜のとばりの中へ消えていくと、辺り一面に柔らかな清風が優しく吹き渡っていった―――