セジュン

□遅咲きの花
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ジュンミョンがセフンの元を去った2年後、セフンは街はずれの小さな花屋がある通りに立っていた。

付き合い始めて間もない頃、ジュンミョンが話してくれた事がある。祖父母が花屋を経営していた影響で、自分も花屋を持つのが夢なのだと。そう語るジュンミョンの瞳はきらきらと輝いていて、何の夢も持たないセフンにはとても眩しく思えた。

あの頃のジュンミョンは、その夢のために仕事を掛け持ちして昼夜問わず働き、一生懸命お金を貯めていた。自分はそんな人の脛をかじるような真似をしていたのだ。本当に馬鹿な奴だった……

セフンはジュンミョンが去った後、彼に連絡もせず、訪ねて行くこともしなかった。
胸の裡には縋りつきたい執着のようなものがあったのに、そんな自分をさらけ出せる勇気をセフンは悲しいくらい持ち合わせてはいなかった。

この2年間、セフンは一人になったことで、ずっと見て見ぬふりをしてきた自分の心に嫌というほど向き合うことになった。
そして、気付いたことは、セフンの心は母親に捨てられた時のまま止まってしまっているということだった。

自分は捨てられて悲しかったのだ。
あまりにも深く傷ついて、その辛い感情を感じないで済むように心の奥底へ押しやり、そんな当たり前の感情さえ気付かずにいた。そうしないと幼かった自分は生きていけなかったのだ。

どうして、僕を置いていくの……?
置いていかないでっ……!!

本当はそう言いたかった。
怒鳴り散らし、泣き喚きたかった。

初めてその感情に向き合えたとき、セフンはひとり泣き崩れた。
あぁ、自分はこんなにも悲しかったんだ、と。
堪らなく辛くて、苦しかった、と………



セフンがジュンミョンの店を知ったのは偶然だった。
ジュンミョンと別れて以来、夜遊びもしなくなり飲み屋に行くことも滅多になくなったのだが、友人の開店祝いで行ったバーで、ある客がジュンミョンを見かけたと教えてくれたのだ。その客とは、あの日、ジュンミョンと鉢合わせた男であった。セフンが男に会うのはあの時以来だった。彼は風の噂であの日ジュンミョンが出て行ったことを知り、ずっと心にひっかかていたと言った。あの一件があるまで彼とは会えば軽口たたきあうような気楽な仲だったのでわかる。彼は元来、気のいい奴なのだ。
セフンは彼に礼を言って店を出た。彼が気にすることは何もなかった。全部自分が悪かったのだから。


横断歩道の向こうに見えるジュンミョンの店は、その面積のほとんどが花で埋め尽くされてしまうほどに小さく、店先にもたくさんの鮮やかな花が並べられていた。

ジュンミョンはちょうど店先に出て、客を見送っているところだった。
その表情には穏やかで優しい微笑みが浮かんでいる。

セフンは左手の腕時計にそっと触れた。それはいつからか習慣になった仕種だった。
本当はここに来るか迷っていたのに、気が付くと足が勝手にここへ向かっていた。
仕事終わりに寄ったので、セフンはスーツ姿で店のある通りに立っていた。

就職活動は、他人に世話になってばかりでまともに働いたことがなかったセフンにとってかなりの苦労を要することとなったが、幸い、度量のある社長と出会えたおかげで小さな会社ではあるが就職することができた。今は人並みにサラリーマンとして働いている。

セフンは就職活動がうまくいかなかった時や、過去からくる苦しさで底なしの沼に落ちていくような気持ちになる時……いつも、ジュンミョンのことを思い出していた。
聖母のように優しいあの微笑みを瞼の裏に思い浮かべて、それらを乗り越えた。

その微笑みが今、すぐ手の届くところにある。
けれど、胸を掻きむしるような苦しさや、失ってしまった悲しみは湧いてこず、心は不思議なほど凪いでいた。

ただ素直によかったと思えた。
ジュンミョンが夢を叶えられて、幸せそうで、本当によかったと。
ジュンミョンは自分にとってかけがえのない大切な人だという確固たる想いが、まるで大木の太い根が大地に張るように心に根差しているのがわかる。

そうか、愛を求めていたから苦しかったんだな……愛を与えてあげられてたらよかったんだ。でも、それは自分には出来なかった……
自然と涙が溢れて、視界がぼやけた。
切ないけれど、そこに激しい痛みは伴わず、ただ穏やかな諦観があるだけだった。
あの頃のように心の虚を埋めるために縋るような不安な気持ちはなくなり、ようやく執着を手放せて心が軽くなったような気がした。

彼が幸せならそれでいい。
これからは自分の寂しさも、悲しみも、弱さも全て認めて、全部抱きしめて生きていくんだ……

セフンは大きく息を吸い込み静かに長く吐き出すと、ゆっくり踵を返した。
力強く一歩一歩、地面を踏み締めて歩く。

ジュンミョンが心安らかに暮らせますように。
そして、自分に対して、もう過去に囚われず今を生きられますようにと強く祈り、また信じながら、セフンは暮れなずむ春の空を見上げた。


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