セジュン

□世界でいちばん好きな人
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部長に連れて行かれたのは、ソウルの一等地にある高級料亭だった。女将と長い廊下を歩き、奥の座敷に案内される。凝った意匠の欄間など初めて見たセフンが部屋の前で手彫りの松の木に見惚れていると、女将によって襖が開かれ中に通された。
座敷に入ってまず最初に、正面に開かれた障子から風情のある日本庭園が目に飛び込んできた。腰を下ろした向かい側には床の間があり、水墨画の掛け軸と、その掛け軸の丈の半分ほどの高さがある盆栽と生け花が水墨画の両側を華やかに彩っている。
これは一体何事なのか……?世事に疎いセフンにも、ここが自分のような一平社員が滅多に来れない高級店だということはわかる。そんなところへ部長が自分と食事するためだけに連れてきてくれたのだろうか?つい1年半前まで大学に通っていたような社会経験の少ないセフンにはこれが普通のことなのかどうかよくわからなかった。

セフンがそわそわと落ち着かない気持ちで座っていると、向かいの部長もなぜか落ち着かない様子で何度も腕時計で時間ばかり確認していた。

「どうかされたんですか?」

「いや、ちょっとな……」

「失礼致します」

座敷の外からの女将の声掛けに、そわそわしかった部長の顔に安堵の色が浮かぶ。セフンはそれを怪訝に思いながら襖の方を見遣ると、そろそろと襖が開きそこに矍鑠とした年寄りの男が立っていた。

「遅くなってすまんな」

「いえ、何をおっしゃいますか!どうぞ、どうぞこちらへ」

そう言って向かいにいた部長がセフンの左隣に移動してくる。セフンがわけもわからず呆然としている間に男がいそいそと部屋に入ってきた。そしてこれまた見覚えのない若い女がひとり、男に続いて一緒に座敷に入ってくる。

「あの、一体この方達は誰なんですか?」

「なにを言ってるんだお前はっ、我が社の会長じゃないかっ」

セフンが部長の耳に顔を寄せ声を潜めて訊ねると、目を白黒させて驚かれる。我が社の会長は、一応顧問としての役割を担ってはいるらしいが、年老いて隠居状態の会長が社に顔を出すことは少なくともセフンが入社してからほとんどなかったはずだ。それに仮に出社してたとしても一平社員である自分が大企業の会社のトップと顔を合わすことなどほとんどなかっただろう。
その会長が今この場にいるのはなぜなのか。そしてもっとわからないのは自分の正面の席で面映そうな表情を浮かべている女性が何者で、一体どんなわけでここにいるのかということだった。セフンが「じゃあ、女性の方はどなたですか?」と部長に訊ねようと思ったら、二人はもう席につき会長が話し出してしまった。

「今日はわざわざ時間を取ってもらって悪かったの」

「いえ、とんでもありません」

部長はかしこまった固い声で答え慇懃に頭を下げた。セフンも事態を把握できず混乱しながらも、ただぼうっとしてるのもどうかと思い部長と一緒に軽く頭を下げる。

「オ・セフン君、だったね?」

「はい」

突然名前を呼ばれ、思わずセフンは居住まいを正した。

「突然呼び出して悪かったね……それで、この子なんだが…わしの孫での……」

「はじめまして、イム・ミナと申します」

「はじめまして……」

はにかみながら頭を下げた彼女は、きっと会長の孫だと知らなくても良家のお嬢様だろうと想像しただろうなと思うほど清楚で上品な娘だった。セフンもおずおずと頭を下げる。会長は呼び出して悪かったと言うが、そもそもセフンは会長が自分を呼び出したなんて聞かされていなかった。一体なにを言われるのか、ますますわからなくなる。会長は若い二人が挨拶を交わし終えると、ゴホンと咳払いをひとつして話を続けた。

「それでじゃな、今はじめましてと言うたが、実はミナの方は以前から君のことを知っていたそうでな……」

会長の言葉にミナの顔が徐々に淡く朱色に染まっていく。

「父親を訪ねて会社に顔を出したときに君を見かけて……まぁ、その……見初めたそうなんじゃ……」

会長がそう言うとミナはとうとう顔を真っ赤に染めて俯いてしまった。
彼女の父親、社長に会いに来て見初める……どうやら目の前のお嬢様はセフンに一目惚れしたらしかった。

「いやぁ、出過ぎたこととは思うたんじゃが、わしは孫にはめっぽう弱くての……この子は来年の春大学を卒業するんじゃが、わしも生きてるうちに孫の顔が見たいし、早すぎるゆうことはないと思うんじゃ……どうじゃ?孫と結婚を前提に付き合うことを真剣に考えてはもらえんじゃろうか?」

セフンは予想もしなかった会長の言葉に甚だ面食らった。今日初めて会った相手と結婚を前提に付き合うことを考えてみてくれと言われても、はいわかりましたと即答なんてできるはずがないと思った。それに何より、自分には好きな人がいる。たとえその人に避けられていようとも自分の心がその人だけを求めてることに変わりはない。セフンは断るつもりで口を開いた。

「いえ、せっかくですが僕には……」

セフンが言い終わるのを待たず会長が口を開く。それと同時に、隣にいる部長に肘で脇腹を軽く小突かれた。

「……この子の結婚相手はうちの役員に迎え入れるつもりじゃ。ゆくゆくは会社を任せたいと思うとる」

会長の言葉と間を置かずに部長が続いて口を開く。

「まぁ、セフン君。返事をするのはミナさんと話をしてみてからでも遅くはないだろう?会長……」

部長が小声で会長を呼んでふたりで目配せすると、会長が大仰な咳払いをして腰を上げた。

「まぁ、とにかくじゃな…わしたちは退散するから二人で食事しながらゆっくり話をすればええわ」

「さぁさぁ、行きましょう会長」

「ちょっ、ちょっと!部長どこ行くんですか!」

セフンが慌てて引き止めようとすると、部長は手のひらをセフンに向けて制止するようなポーズをとり、顔を顰めてセフンにだけわかるように声には出さず口が「まぁまぁ」と動く。そしてそのまま二人はセフンとミナを残してそそくさと座敷を後にしてしまった。セフンが二人の行動に唖然としていると、ずっと口を閉ざしていたミナが徐に話しかけてきた。

「……すみません、今日は勝手にこんな場を設けてしまって、驚かれましたよね……本当にごめんなさい」

しゅんとしてしおらしく謝られてしまい、セフンがどうしたものかと思っていると、襖が開き、まるではかったようなタイミングで料理が運ばれてくる。

「せっかくですから…どうぞ召し上がってください。どうか、お願いします」

ミナはセフンがこのまま帰ってしまうと察したのか、必死に懇願してくる。
セフンはそのミナの悲愴な表情に、一瞬このまま食事だけして後日断りを入れようかと頭を過ぎったが、その考えをすぐに打ち消した。自分にはジュンミョンしかいないことはわかりきっている。彼女に期待させるのはよくない。それにあまり長引かせたくもなかった。会長の孫娘を振るようなことをすれば自分なんてあっという間にクビになるかもしれないが、それでも構わないと思った。

「申し訳ありません……俺はあなたの気持ちには応えることができない……俺には心に決めた人がいるんです」

セフンは彼女を見据えはっきりと言い切った。途端、彼女の柳眉が撓み、つぶらな瞳がうるうると潤み出す。言葉を失ってしまった彼女に向かってセフンは尚も続ける。

「ですから、これ以上あなたと一緒にいても俺の気持ちは何も変わらないんです。本当に申し訳ありません」

セフンはミナに向かって丁重に頭を下げる。それをただ呆然と見つめる彼女の痛々しい視線を振り切ってセフンが腰を上げようとしたとき、ようやくミナが重い口を開いた。

「セフンさんの想いは報われるんですか……?」

ミナがようやく聞き取れるような掠れた声で切り出した言葉にセフンがのろのろと顔を上げると、彼女がセフンを見つめる目は言葉の弱々しいトーンには似合わない、とても鋭いものだった。ミナは次の言葉を、その鋭い目つきに見合った落ち着いた声で放った。

「あなたの心に決めた人というのは、同性の方じゃないんですか……?」

彼女の口から飛び出したまさかの意表を突く言葉に、セフンは目を瞠って固まる。どうして彼女がそのことを知っているのか……その疑問はセフンが聞かずとも彼女自ら語り出した。

「さきほど祖父が、私が父に会いに行ったときにあなたを見初めたと話ていましたが、私が会社を訪ねたのは実は一度や二度じゃないんです……私、あなたを初めてお見かけしたあと、あなたに会いたくて何かしら理由をつけて父を訪ねました。そうして、あなたは覚えていないと思いますが……父と一緒にロビーにいたときにあなたが父に挨拶なさったんです。それで私は父にあなたの名前を訊ねました。でも、父はあなたの名前を知らなかった。けれど、あなたの隣にいた方の名前ならわかると言って、父はその人の名前を教えてくれたんです……『キム・ジュンミョン』というのだと」

彼女がジュンミョンの名を口にしたことに、セフンは息を呑んだ。彼女はそのセフンの表情を窺うように見たあと、滔々と語り出した—————

「……そのあとも私は父に会いに会社に行きました。そのうちにあなたがどこの課に所属しているのかを偶然知り、キム・ジュンミョンという人があなたの上司だということも知りました。私があなたに会えるのはロビーぐらいのものだったんですが、昼の休憩時間にそこを訪ねると大抵あなたとジュンミョンさんは二人連れ立って外へ出かけていきました。あぁ、きっと二人でランチに出られてるんだろうな、セフンさんは上司にとても可愛がってもらえてる方なんだなって、私、その光景をいつも微笑ましく見ていました」

「ある夜、仕事終わりの父を食事に誘いました。食事のあと、私は友人と約束があったので店前で父と別れて、友人と待ち合わせした場所まで少し距離があったんですが、夜風が気持ちよかったので私はそこまで歩いて行くことにしました。そうして、ひとり歩いていたとき……セフンさんをたまたま見かけたんです……」

「そこは会社からもだいぶ離れていて、繁華街でもないただの住宅街で、まさかそんな所でセフンさんに会えるとは思わなくて……私、すごい偶然だなって嬉しくて、一人で勝手に舞い上がりました。別にセフンさんが私を知ってるわけでもないのに、おかしいですよね……」

「でも、そのとき初めて会社以外のところでセフンさんを見かけて、私勇気を出して声を掛けてみようかなと思ったんです……不審者と思われるかもしれないけれど、こんなチャンス二度と訪れないかもしれないと思って……それで、足を踏み出してからようやく気付いたんです。セフンさんがひとりじゃないってことに……」

「セフンさんの隣にはあの、キム・ジュンミョンさんがいました。本当に仲が良いんだなって、微笑ましく思ったのもほんの一瞬だけでした……あなたたち二人は固く手を繋いで歩いていたから……でも、それだけなら、まだ私の勘違いだと思えたかもしれない……けど、あなた達は電柱の影でキス……してました。それはどう考えても、ただのおふざけなんかじゃない、恋人同士のそれでした……」

「私、はじめて同性愛者の方を目の当たりにして、まして自分の好きな人がそうなんだって知って、別に差別なんてしていないつもりでしたけど……ショックでした。それで、思ったんです。セフンさんにとって彼といることで本当に幸せになれるんだろうかって……だから、私彼を呼び出して話しました。『私はセフンさんと結婚したいと真剣に考えてます。いずれはセフンさんに会社を継いでもらいたいと思ってます。だから別れてほしい』って……」

「一昔前とは違って状況は良くはなっているでしょうけど、きっとまだまだ同性愛に対して偏見だってある。二人の関係が周囲に知れたときにリスクがないとは言い切れない。家族にも堂々と打ち明けられないでしょう?それに、結婚も、子供もつくることができない……」

「でも…私にならっ、彼があなたに与えてあげられないものを与えてあげられますっ!家族に祝福されて、結婚して、子供も……それに、いずれ祖父が築いた会社だってあなたにあげることができる。彼は……キム・ジュンミョンさんは……あなたからその全てを奪うことは出来ても、あなたに与えてあげることは出来ないでしょう?それなのに、それなのに……っ、どうして彼じゃなきゃダメなんですかっ?彼はあなたを幸せにはできないわっ……!」

楚々としてお淑やかだったミナが、最後には涙を流して語気を荒げた。
セフンは彼女の長い長いひとりよがりな話を黙ってじっと聞いているあいだ色んな感情が激しく胸に渦巻き、気がつくと握りしめた拳には爪が食い込んでいた……けれど、結局最後はただ彼の、ジュンミョンの優しい微笑みだけが胸を支配していた。早く彼に会いたい。今すぐ駆け出して行きたい。彼を抱きしめてあげたい……セフンはその想いをなんとか抑えゆっくり話し出した。

「彼は、俺にとって特別な人なんだ……俺は、彼にただ見つめられるだけで嬉しくて、彼が笑ってくれていたら幸せで……もし、彼が泣いていたら抱きしめて、何時間でもそばにいて一緒に悲しみたいと思う。でも、じゃあ、なんで彼じゃなきゃダメなんだって理由を聞かれたら、これですとははっきり答えられない。ただ彼が彼だからとしか言いようがない。そう思うことに性別なんて関係ないんだ……別に家族から祝福されなくたっていい。結婚や子供だって、金や地位や名誉にも興味はないよ。俺はあの人さえいてくれたらそれでいい……彼になら俺は与えてもらうどころか全て奪われたってかまわない……そう、思ってる」

セフンは自分の気持ちを包み隠さずに全て話した。もうここにとどまる理由はない。彼女にどう思われようが関係ない。
セフンは泣き崩れる彼女を置いて部屋を飛び出した。
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