書籍

□paradise
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目の下を指でこすって、睡魔の抜けきらない背中と。
ぴしっと整えられたYシャツと、鍛えていることが分かる身体の所作と。

味でいえば少し甘くて辛いような、違う二つのギャップを背負った彼を見送るのは、いつもの毎日だ。

変則的ではあるものの、朝はおおむねこの時間帯。
同じ時間に起きて、同じようなものを食べ、規定のシャツを着て、同じ時間に玄関で靴を履いて、それで。

同じこと。変わらない。変わらない、同じことなのに。
(ため息が出る)

わずかに閉じた唇の間から、気持ちの落ちる息が漏れる。
ほんのわずかで、本人さえも気づかないような一瞬に、彼は振り向く。

「どうかした?」

少しだけ眠たそうな表情で、いつものように優しく目尻を下げて、微笑みながら振り向く。
振り向かれたくない気持ちまでは、読み取ってくれないほどに、彼は優しい。

「…なんでもない!いってらっしゃい!」

私もいつものように笑って、彼を送り出す。
靴も履いてしまった彼はもう、この扉を開けて外に出ていくのみだ。

「……行きたくない、かな」

自分の仕事に情熱を持って真っ直ぐに向き合っている彼が、靴も履いて、あとは出ていくだけの身を完全にこちらへ向き直していた。
仕事に対して「行きたくない」とはっきりと否定の意を口にした彼を見るのは初めてで、驚く。

「…どうしたの?」
「それはこっちのセリフ」

彼は靴を履いたまま私を見下ろして、ぶらりと空いている私の右手を手にとった。
彼の利き手でぎゅっと握られて、本当に扉を開けて外に出る気がないのだと悟る。

握られた手の温もりに、幸福を感じて。
ぎゅっと、握り返した。

「…ごめんなさい」

自身の芯を強く持って、仕事をしている彼が好きだ。
彼が居たから、未来を信じられた人間がたくさんいることを知っている。
彼はきっと、この先もずっと、たくさんの人間のこれからを救っていくのだろう。

そんな彼の側に居られることが、奇跡みたいなものだ。

なのに、朝、いつもの時間に起きて、彼を見送っての毎日が当たり前になってしまっているのが恐ろしかった。

いつか、この握ってくれた手も離れてしまうのではないか。
大好きなのに、勝手に寂しくなって、彼が仕事よりも自分を優先してくれたことが嬉しくなって。

言わなくちゃいけない言葉がたくさんあるのに、謝ることしかできなかった。

「今日さ、いつもより少し早く帰れそうなんだ」

彼は、まるでいつもの、帰りは何時だからという、同じ部屋で暮らしているための業務連絡を口にした。
私のごめんなさいなんて、聞かなかったみたいに。

彼の言葉に上手く反応できなくて戸惑っていると、彼は優しく笑って、「だから、おかえりって待っててくれる?」、そう言った。

あなたと離れたくない、ただそれだけで。
心配させちゃって、ごめんね。
あなたは、絶対に帰ってくるよ、そう、言葉なく伝えてくれているのに。

ぎゅっと握られた手を私から離せば、彼はすっと力を簡単に緩めてくれた。

「いってきます」
「いってらっしゃい」

私と約束をしてくれた手で、誰かの未来を守るために、彼はこの部屋の扉を開けていった。

だから私も、彼を「おかえりなさい」ってちゃんと迎えなくちゃ。

仕事へと出掛けていく彼の背中をぽんっと押す。
やっぱりあなたと一緒が良いなって気持ちを込めて。

大好きになって、勝手に寂しくなって、幸せばかりを手に望んでしまって。
まるで、海の上をオールのない船で渡っているような不安定さなのに、それでも空は笑ってる。

どうしてなのか、きっとその答えはあなただけが持っている。

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