記念日小説
□紫陽花の妖精
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〜紫陽花の妖精〜
「いらっしゃいませ。」
本格的に梅雨入りし、バケツをひっくり返したような雨が降り続いていた。
今日は休日で、一日中バイトに入っていたが、この雨のせいで客はほとんどいなかった。
ひさしぶりに来た客に、マニュアル通りの挨拶をする。
雨に濡れたのか、全身びしょ濡れの男は、迷わずにビニール傘を手に取るとレジに来た。
(あーあ。床がびしょ濡れ。。)
後で拭かないといけないな。でも暇だからまあいいか。
レジに置かれた傘にテープを貼った。
「500円になります。」
私はそこで初めて、客の顔を見た。
彼は、紫陽花色の髪をしていた。吸い込まれそうなくらい大きな瞳と、高く筋の通った鼻が印象的だった。
(綺麗なひと…)
男にこんな言葉を使っていいのかは分からないが、綺麗という言葉がとても似合う気がした。
彼は、ポケットからお金を出すと、私に渡した。
慣れた手つきで、会計を進めていると、視線を感じた。
真正面から。
彼は私をじっと見てきた。
「…なんですか。」
レシートを渡してもなお、私から外されない視線に、首をかしげた。
知り合いではないはずだった。こんな綺麗な知り合いがいたら、絶対に忘れるはずがない。
「もうお客さんも来ないだろうし、遅くならないようにね。」
鼻にかかった特徴のある声で彼は、そう言った。
(何を言ってるんだこいつは。見た目はいいけど中身はイカレてるやつなのか。。?)
初めて会った私に、そんなことを言う彼に不信感を抱きつつも、「あぁ、ありがとうございます。。」と答えると、彼は買ったばかりの傘を差して店を出て行った。
午前2時。バイトが上がりの時間となり、交代で来た先輩と入れ替わりで、私は外に出た。
少し前までひどかった雨は止み、街灯に照らされて濡れたアスファルトがきらきらと光っていた。
真夜中ではあったが、トラックやタクシーなどがちらほら走って行った。
人の気配に安心しつつ、自転車の鍵を解除した時だった。
「遅かったじゃん。」
どこかで聞いた声がして、私は顔を上げた。
紫陽花色の頭の彼だった。さっき買った傘を片手に、少し手前の街頭にもたれかかっていた。
「…待ってたんですか。」
まさか、何時間もずっと...?私が、驚いた顔をすると彼はにっこりと笑った。
「そ。一緒に帰ろうと思って。」
やっぱり頭おかしいかもしれない。家も知らないし、家の方向が同じかも分からないのに、一緒に帰ろうって?ましてや、名前も知らない、初対面同士なのに?
「ひとりで帰ります。」
私は、彼を綺麗すぎる不審者と見なし、逃げるようにその場を立ち去ろうとした。
「まって、まって!途中まででもいいから!ね?」
彼は、私の前に立つと、お願い、と手を合わせた。
引き下がりそうにもない彼に、私は、どこか適当なところで分かれればいいか。と思い、しぶしぶ承諾した。
すると彼は、「よかった。今日は、滑りやすいからね。」と、これまた意味不明な発言をした。
…・・一緒に帰ろうと言った割に、彼は何も聞いたりしてこなかった。ほんとに、なんなんだろう。私は、そろそろ彼と別れようと思い、押していた自転車にまたがると、彼を振り返り「じゃ、これで。」と言い残し、ペダルを勢いよく踏み込んだ。
と同時だった。視界の右側に目を開けられないほどの光を感じた。
・・・トラックだ。
そう認識するのと同時、私は目をつぶった。
すさまじいブレーキ音と金属音が聞こえた。
体に強い衝撃を感じ、遠ざかる意識の中、体を何か柔らかいものが包み込む感覚がした。
――…目が覚めると、白い病室だった。ひとの良さそうな年老いた医者が私に言った。
「大きな事故だったけど、頭を強く打った意外は無傷でした。運が良かったね。」
医者は、事故に巻き込まれたのはひとりだと言った。
救急車を呼んだのはトラックをしていた運転手だった。
彼はどうしたのだろう。あの時、まだ彼は私のすぐ近くにいたはずだった。
「あ、そういえばあの傘。君のかな?」
医者が指さした先には、傷ひとつないコンビニの傘が立てかけられていた。
私は思わず息が止まった。
「…誰か病室に来ましたか?」
私の問いかけに医者は首を横に振った。でも、気づかないうちに誰か来たのかもしれないね。と、医者が呟いた。
医者の目線の先、戸棚の上に、大きな紫陽花が花瓶にささっていた。
紫陽花頭の彼に会うことは、それから一度もなかった。