novel

□Episode1(8)
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 静かな執務室に、ノック音が響く。
「…開いている」
 手元の書面から顔を上げずにエドガーが言う。
 ゆっくりとドアが開いた。
「おや、今日は機嫌がいいみたいですね」
「ん…わかるか?」
「ええ。もしかして、昨日の特異点の子が原因ですか?」
 黒髪の青年の言葉に、思わずエドガーの顔がほころぶ。
「ああ。こんなに楽しいのは久しぶりだ。なぁ」
 ゆっくりとした優雅な動作で手元の紙を机の上に置いてから、エドガーが正面を向く。
 背後の窓からの陽が、綺麗な斜になって背中に降り注ぐ。気持ちのいい乾いた風が部屋に舞い込んでカーテンを揺らしていた。
 美しい笑顔のまま、エドガーは続けた。

「お前にも家族はいるか? アーサー」

 時が止まっているような、不思議な空気が流れていた。窓からさす陽の光の中で、小さな埃が光る。男はいつも通りの穏やかな笑顔で答えた。
「…いいえ。私は孤児ですから」
 その綺麗な笑顔を見終えてから、エドガーはゆっくりと後ろを向いた。
「そうか。…なら俺は、きっと…幸せ者だ」
 言いながら振り返って壁に立ててあった剣を抜く。
 冷たい金属音が響いた。
「……ッ!!」
 エドガーの抜いた剣が、アーサーの剣をはじく。不規則に弧を描いて回転しながら床に刺さったそれを見もせずに黒髪の男は床を蹴って大きく背後に飛んで苦笑しながら呟いた。
「…殺気…漏れてましたか? 自分では完璧だと思ったのですが」
「いや、殺気は感じなかった。完璧だったさ。この三年間、お前は完璧だった。俺の優秀な相談役であり一番気の許せる親友だった。現に昨日までは一瞬たりとも疑ったことはなかった」
「昨日…やはり、あの女性が…」
「俺の妹だ」
「………………」
「正直、信じたくはなかったがな…。昨日、お前はあの子の怯えた顔を見たか?」
 あの時、エドガーがグレシアの肩を抱いたとき。彼女の体が震えていた。エドガーの服を掴んでいた指先は、エドガーに助けを求めるようでもあり、同時に…それ以上エドガーを男の方へ行かせないように止めようとしているようにも感じられた。そうだ。あれさえなければ…昨日のあの出来事さえなければおそらく今の一撃で確実に死んでいた。
「ええ。…残念ですよ。昨日の彼女、結構好みだったのに…賢そうで素直そうで…」
 その瞬間、アーサーの顔が今までエドガーが見たことがないくらい楽しそうに笑った。
 次の瞬間、懐のナイフを抜いて突っ込んできた男をエドガーが反射的に剣で止める。
 速い。先ほどの一撃もそうだが、動きに迷いがない。やはりこの男初めから…。エドガーがそこまで考えた瞬間だった。笑顔のまま男は続けた。
「虐め甲斐がありそうで」
「……ッ!」
 動揺した瞬間、アーサーの翻した刃の切っ先が体をかすめて今度はエドガーが距離をとる。落ち着け…。早鐘のように鳴る鼓動を押さえつけながらエドガーが深く呼吸をついた。相手がエドガーを挑発するのは隙を作りたいからだ。今日は人が出払っていて暗くなるまでここに誰も来ないことはよくわかっている。自分も…この男も…。
「あなたにはまだ話したことがなかったと思いますが…あの子の怯えた顔、あんな顔を見るのが私は本当に好きで…。ああいう顔した子を壊して泣き叫んでいる様を見ていると…ひどく贅沢な気分になれるんですよ…。…長年大切に育てた花を手折る瞬間のように心が沈む」
「…諦めろ。剣の腕は俺の方が上だ」
 挑発に乗って理性を失ったら最後だ。しかし、あくまで冷静に話すエドガーの目は既に怒りの色が濃くなっていた。
「ずっと…あなたのそんな顔が見てみたかった。さっきも本当は急所は外していたんですよ? 一撃で仕留めてしまったら…あなたが悔しがる顔が見れないでしょう?」
「………なるほど」
「?」
「向こうの世界のグレシアが死なずに済んだ理由が分かった」
「……なるほど。私も何故あなたが驚いてくれなかったのかわかりました。つまり、向こうでは彼女だったわけですか」
「…ああ。今の話でよくわかった…あいつが…向こうのお前に何をされてきたか…ッ」
 叫んで切りかかる。リーチはこちらの方が長い。通常ならそれで勝負がつくはずだった。
「………ッ?!」
 体が言うことを聞かない。エドガーの一撃を軽くかわしてから、アーサーは軽い口調で言った。
「ああ…すみません。まだ言ってませんでしたね。昨日の昼に私と話した時のこと、覚えてますか?」
 エドガーの鋭い声が飛んだ。
「………何を…いれた…ッ?!」
 あの時はまだ、何一つ疑う前だった。いつものようにこの男と仕事上の打ち合わせをして…淹れられた茶を普通に飲んだ覚えがある。
「砂漠では即効性の毒が大半ですから、珍しいでしょうね。…こういう遅延性のものは」
 言いながらエドガーの腕から剣を取り上げる。
 床に崩れて荒い呼吸を繰り返しながら、それでも鋭い目で睨み上げてくるエドガーを見下ろして、男は言った。

「騎士が自分の剣で斬られるのは…どんな気分ですか?」
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