長編その2

□ハッピーバレンタイン
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入学試験の日、香は受験生の案内の手伝いをしていた。
昨日の地震の影響はなく、無事に入学試験が終わると手伝いをした生徒に龍也と林檎からジュースとシュークリームを貰った。
那月と香はそれを一緒に談話室で食べることにした。

「ちょうど一年前ですね。僕たちが出会ったのは」
「そうだね!前の日に雪が降ってね、那月くんとぶつかってお尻どろどろになっちゃったんだよね」

一年前のことを思い出しながら話し、2人はクスクス笑い合った。

「あの時、僕が迷子になってなかったら今どうしてたんでしょうね」
「違う人とペア、組んでたかな」
「うーん…そうだったら、すごくやだなぁ」
「ふふふ、それでも那月くんはきっと素敵なアイドルになると思うな」
「そうかなぁ…」
「でも、やっぱり私がパートナーになれて良かった。だから、迷子になってくれてありがと」

お尻は泥だらけだったけど、と笑うと那月もクスクス笑ってジュースのペットボトルを乾杯するようにぽふっと当てた。
それからも寒い日が続き、オーディションに向けて追い込みをかけていたが、ある日が近づくと那月も香も、クラス中のみんなもそわそわし始めていた。

「どうする?」
「手作り?」
「どこで作るの?」
「ここで作ったらバレちゃうよ」

香と春歌、友千香もコソコソと話し合っていることが増えていった。
そんな女子達の様子をちらちら見ている男子達は気にしている癖に、その気は全くないような素振りをするのに忙しかった。
週末、香と春歌、友千香は3人で香の実家に行き、キッチンを占領した。
キッチンから楽しげな笑い声と甘い匂いがしてくると、父親はうどんに「こんなのは初めてだな」と小声で話しかけた。

「四ノ宮くんが腹を壊さないといいが」

クスクス笑いながらうどんを撫でて、時々聞こえてくる「これ大丈夫かな」という不安そうな声に、父親も不安を感じていた。
数時間後、父親の前には香達の作ったチョコレートのお菓子が並んだ。

「私が先にいただいちゃっていいのかな」

恐縮しつつ若干の不安を感じながら、父親はお菓子に手を伸ばした。
香達も心配そうに見ていたが「うん、おいしい!」という言葉が聞こえるとホッとしたように笑った。

「美味しいな。甘さが控えめでいくらでも食べられそうだ」
「良かったぁ!」
「こっちのトリュフも美味しい。口溶けが滑らかだ。このマフィンも、チョコチップクッキーも美味い」
「チョコチャンククッキー」
「チョコチップクッキーと何が違う?」
「……わかんないけどぉ」

みんなでクスクス笑いながら、作ったチョコレートのお菓子を食べて、香の部屋で可愛くラッピングをした。
2階から聞こえる楽しい笑い声を聞いて、父親は「少し寂しい」とこぼした。

「女の子というのは、どんどんこうやって離れていくんだなぁ…」
「何言ってんの。うちはいい方よ」
「……そうかもしれんが」
「毎年ちゃんとバレンタインはあなたにくれてたし、今年だってくれたじゃない。春ちゃんと友ちゃんからも」
「おこぼれじゃないか」
「あら、贅沢ね」

母親はクスクス笑ってコーヒーを一口飲んだ。
香達はラッピングをしながらお喋りをし、笑い声が絶えなかった。

「びっくりするかな」
「するでしょ」
「手作りのチョコレート渡すの初めて」
「私も〜」
「あたしも。今まで家族にしかあげたことなかったし、それだって買ってきたやつだし」
「喜んでくれるといいね」
「ね」

後片付けをして駅まで送ってもらい、車を降りる前に香は父親に可愛くラッピングしたチョコレートを渡した。

「これはパパの」
「さっき貰ったのにいいのか?」
「さっきのは、あれよ。毒見?」
「ははっ、そうか。ありがとう」

じゃあまたね、と香達は手を振って帰って行った。
寮に戻り、明日が楽しみだねと言って別れると香はメッセージカードを書くために机に座った。
なんて書こう、と思いながら机に飾られた那月の写真を見つめた。
こんな風に那月のことを考えている時間が前よりも増えていって、その度に胸がドキドキ高鳴った。

那月くんもこんなふうに私のこと考えたりするのかな。
毎日会っているのに、会いたいなって思ったり、そばにいるとドキドキしたり。
触れたいって。
思ったりするのかな。

そっと耳に触れて、あの日の感覚を思い出していた。
ハッキリとわかったわけじゃないけど、きっとあれは那月の唇の感触で、それを思い出すと胸がドキドキした。
那月のことを考えている時とはまた少し違った胸の高鳴りは、どうしたらいいのかわからない小さな不安もあって香は両手で顔を隠してため息をついた。
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