Complacency 2
□侵蝕
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今日はついていなかった。
久々の休暇。
馴染みの店が突然休みで、欲を発散させようと向かった風俗は、忙しいのかそういう接客なのか随分とおざなりな処理をして時間よりも早く俺を追い出しやがった。
熱は静まったものの、腑に落ちない思いを抱えたまま、宛てもなくふらふらしていたのが悪かったのだろう。
この時点でとっとと帰ればよかったと後悔しても遅く。
そうすればこの男に会うこともなかった。
こんな思いをすることもなかった。
「っ、悪い」
繁華街から少し離れた道の真ん中。
一人の男と肩をぶつけた。
振り返ると、俺とあまり変わらない背丈の、けれど俺よりも大柄な男が金髪を無造作に広げてくわえ煙草で立っていた。
「…痛ぇな」
ギロリ、と睨む形相はまるでヤクザのようだと些か怯んだものだ。
「すまない、前をよく見ていなかったんだ」
「………」
何も言わず睨んでくる。
ずい、と一歩踏み出して俺の顔を覗き込んできた。
凄んできた、と言った方が正しいのかもしれない。
これは厄介なのに捕まったな、と内心溜め息を吐いてどう穏便に済まそうかと頭を働かせた。
何事もなく解決させて、この場から離れよう。
「済まなかった、少し飲み過ぎたようだ。あんたも随分飲んでるな。タクシーでも拾うか?」
飲んでなどいなかったが、この男から強烈な酒の臭いがしたから、タクシーにでも乗っけて追い返そうという作戦だ。
しかし、この男は俺の言葉を聞いていないのか、もう一歩寄ってきて鼻をすん、と鳴らした。
「…アンタ、飲んでないだろ」
「っ、」
「酒の臭いじゃねぇ…。この臭いは……女の臭いだ」
離れようと一歩下がるが、知らない間にすぐ後ろは壁だった。
目が据わっている。
嫌な予感がした。
背筋を震わすほどの。
「…そこをどいてくれ」
押し退けようと肩に腕をかけて力を入れるが、まるで動かない。
力には自信のある方だ。
今まで一度として負けたことがない。
それなのに、同じ男で身長もあまり変わらないこの男から、敵わない、そう瞬時に読みとった。
「……白い手首。女の臭い」
「何言って……っ、お、おい!」
肩を掴んでいた手を急に引っ張られて、抵抗する間もなくすぐに路地裏へと連れ込まれた。
運悪く、路地裏に入る際、誰も俺の視界には入らなかった。
そして、この路地裏にも人はいない。
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「離せ、よっ!何なんだ、一体」
振り払った手首を擦る。
大して握られていなかったのに、ジンジンと痺れを発している。
喧嘩になれば、恐らく負ける。
負けると分かっている勝負をするつもりはない。
だから、早くこの危ない男から逃げたいのに、隙が見つけられない。
「…これ以上因縁をつけてくるなら、警察呼ぶぞ」
すると、低く笑って髪を掻き上げた男が口を歪めて言った。
「あんたがその警察だろ?」
ドクン、と心臓が鳴った。
何故知っている。
普段では着物を着て髪型も違うため大分雰囲気が変わると、仲間にもあまり気付かれることはないのに。
いや、チンピラかヤクザの風体の男だ。
本当にそうなら、ここらの警察の面くらい割っているのかもしれない。
適当な罪状を付けてしょっ引いた方が早いだろう。
「…どこの者か知らないが…面倒事になる前に退いた方が身の為じゃないか?」
少し威圧を込めて睨めば、男はまた笑った。
「そうだな……身の為だろうなぁ…」
ようやく分かってくれたのか。
そう安堵したのも束の間。
男の目が冷たく閃いた。
瞬間。
「ぐぅっ!」
何が起きたのか分からなかった。
くら、と揺れた視界一杯にガラス玉のような青い瞳が映った。
首と右手首を壁に押し付けられて、勢いぶつけた頭の痛みに呻きが漏れる。
「う…っなにを」
空いている左手で首を掴む腕に爪を立てた。
筋肉に覆われた感触に爪が食い込むことはなく、相当の手練れだともう一度睨んだ。
「…いいねぇ、それ。アンタ誘ってんの?」
「はぁ…?誘う?意味がわかんねぇ……っ、いいから離せ…よ!」
自由な足を蹴り上げて腹に一発入れてやろうとしたが、右手首を押さえていた手で難なく捕まえられてしまい、あろうことかそのまま膝裏に手が差し込まれて壁に押し付けられてしまった。
開いた足の間に男が入って至近距離で顔を合わせる形になる。
首を掴む手は益々力が籠り、息苦しさに眉を寄せた。
それでも目は反らさず。
逃げれないのなら、せてめもの抵抗を。
「くく……いいよ、アンタ。無自覚ってのがまたいい」
分からないことは口を歪めて言う顔に背筋がゾクゾクする。
悪寒からくる鳥肌が男の腕を必死に掴む俺の手に上る。
首を捕まれ、足を抱えられ、間に割り込まれた俺はまるで身動きができない。
不意に、下腹部に固い何かが触れた。
目だけで下を見ようとすると、男が鼻で笑った。
「俺な、今日大損して金がねぇんだ。分かるか?だから、女も買えなかった」
言わんとすることが今一分からず男を訝し気に睨んだ。
「アンタはどこぞで射してきたんだろ?不公平だと思わねぇか。俺は思う」
自己完結の言葉を吐いて、目を細めた。
本能が逃げろと叫んでいる。
ざわざわと悪寒が止まない。
全く読めない目をした男が、急に獰猛な獅子に見えた。
「…正気か…」
語尾を震わせながら絞り出した声に、ただ心地良さそうに口端を上げるだけ。
俺は、獅子の狩猟範囲に入った小動物になった錯覚に陥った。
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