special
□long way
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六月十五日。今月も楽しみにしていた日がやってきた。
何故かと言うと、それはもちろんアルバイトの給料日。
銀行へ向かう途中、私は給与明細を見つめながら声をかけたりしたら少しくらい増えないかな、なんて考えて悶々としながら歩いていた。
不覚だった。
そんなくだらないことばかり考えて、自分の足下の変化にも気付かなかったなんて。
いつものように舗装された硬いアスファルトを進んでいたはずが、いつの間にか柔らかい腐葉土を踏んでいたのだ。
「…うそ、」
まだ新しい白いパンプスが、泥模様をつけて汚いヒョウ柄みたいになっている。
手には額の変わっていない給与明細。おかしいのは溢れんばかりの自然を感じる
周りの景色。それから、
「何か変な歌聞こえるんですけど…」
どこか遠くの国のご親戚の集まりみたいなノリの軽快な音楽と美味しそうな料理の匂い。
無駄に強い好奇心に押されて、歩みを進ませる。木に寄り添って隠れてる自分にスパイみたいだなんて少しだけ酔い痴れながら。
ただ、握り締めた給与明細だけはスパイには必要なかった。
足音をできるだけ控えながら近寄って、やっと音の正体が見えてきた。
サスペンダーがギリギリまで伸ばされてやっと足りるくらいのお腹を震わせて歌う男性やら、やけに肉類の多い料理を両手に抱えたフライパンの似合う女性。全身全霊をかけて今この瞬間を楽しんでいそうな異国の人が七人ほど集まってどんちゃん騒ぎを繰り広げている。
「…何の映画だよ…」
そう、どう観たってハリウッドの小さな一場面。ただおかしいのは、カメラも何もないところ。
「銀行行きたいだけなのに…日本語、わかるのかな。道聞いた方が早いよね…」
折角生きた人間がいるわけだ。道も聞かず歩いてどこぞの自殺の名所みたいになるなんて冗談じゃない。
しかしいまいち覚悟が決まらず、行ったり来たりの下手なダンスを踊りながら小さく声をかけた。
「あのぉ…えく、えくす…すみません」
私は英語は大の苦手だった。
やっぱり話しかけるべきじゃなかったかと後悔していると、その場にいた全員がこちらを向き微笑んだ。
「まぁ…どうしましたの?」
エプロンの似合う女性が機械かと思うくらい流暢な日本語を返してくれた。
私は困惑する頭で何とか要件だけ話した。
「あの…銀行…行きたくて…ぼーっとしてて、迷っちゃって…」
すると後ろからアコーディオンを抱えた男性が右を指差した。
「銀行ならな、あっちだよ。窓口はもう閉まっちまってるけどな!」
何が愉快なのかわからないが、男性は豪快に笑う。合わせて周りも笑うと、また御機嫌な音楽が始まった。
「あ…、ありがとう、ございます…」
私は音楽に負けないように大声を出したが、この人たちにはあまり届いていないようだった。
側にいた女性がとびきり甘いキャンディーをポケットに入るだけ寄越してくれて、私はわけもわからないまま、相変わらずの給与明細を片手に彼らと別れたのだった。
言われた方向に銀行があると信じて進む道中、口に含んだキャンディーの余りの甘さに喉の渇きを感じたが、次のキャンディー、そのまた次のキャンディーで何とか誤魔化しながら歩いた。
もうそろそろポケットを破裂させんばかりのキャンディーも底を尽きようとしていた時、一気に視界が明るくなった。
「…え、あれ…っ」
商店街を抜けた角にあるはずの銀行。
最近改装して必要以上に綺麗になったが故に多少入りにくくなったあの銀行。
片手には、やっぱり額は変わらないまま少し冒険の後が残るくたびれた給与明細。
私は思いっ切り首がもげるくらいの勢いで来た道を振り返った。
そこには豊かな自然と愉快な音楽があるはず…なのに、
「…何だったのよ…」
そこにはいつもの商店街を抜けた曲がり角。
いつもの時間が、愉快な音楽もなしにゆっくり流れている。
「…夢?いや夢だったら増えててもいいはずよ…!」
でもやっぱり、給与明細には変化なし。
私は仕方なく生活に必要なだけのお金を引き出して、ぼんやりと重い足で帰路につくのだった。
ポケットには、最後の一つになったとびきり甘いキャンディーを残して。
=END=
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