撫子
□永久の碧
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ごく自然に、
だが自然に愛せるといふことは、
そんなにたびたびあることでなく、
そしてこのことを知ることが、
さう誰にでも許されてはゐないのだ
私のさんたまりや
──『盲目の秋』中原中也
加地→香穂子
永久の碧
Tokosie no Ao
君が僕を見つけて見開くふたつの瞳が好き。
僕を呼ぶ可愛いらしい声が好き。
こんなに近くにいる事を赦されて、君の奏でる旋律に触れられて……僕は幸せ。
例えば、
僕の背後から「彼」が君の名前を呼ぶとする。
君は僕の傍をすり抜けて、「彼」の元へと走り寄る。
……さよならと振る指先と、遠くなる君の影でさえ、こんなにも愛おしい。
そう、泣きたいくらいに。
「加地くん?」
何度か呼ばれたのかも知れない。
君は僕の顔を覗き込んで、不思議そうに眉を潜めてる。
放課後の練習室には、君と僕の二人きり。窓から射し込む西日が、譜面台の白い楽譜をオレンジに染めていく。
「あ、ごめん日野さん、ぼーっとしちゃって」
「具合でも悪いの?」
「え?大丈夫、ちょっと物思いに耽っちゃっただけ。えーっと、もう一度アタマから通そうか?」
折角の時間を無駄に過ごすワケにはいかない、僕はこうして君と音楽を奏でている一時が何よりも大切なのだから。
君は髪を耳に掛け、そっとヴァイオリンを構える。弦に弓をあてるとタイミングを合わせる為、上目遣いに僕を見上げた。
僕はヴィオラを構えたまま、君の瞳に静かに頷く。
流れるように、吐息のように、ふたつの音が混じり合う……君は高く、僕は低く、世界はまるで僕たちだけのものみたいに、かけがえのない至福の時。
欲を出してはいけない。
これ以上望んではきっと罰が当たる。
胸の奥で鎌首をもたげる感情に任せてしまったら、力ずくで手に入れようとしたなら、きっと君は僕から離れて行ってしまう。
二度と手の届かない場所まで飛んでいって、もう決して僕を振り返らない。
(参ったな……)
僕は苦笑せずにはいられない。
自分が女の子にこんなに臆病になるなんて、君に出逢うまで知らなかった。
僕は自分の欲望に素直で行動力もあるほうだと思っていたけれど、でも違った。
……本当に好きなひとを前に、どう接したらいいのか解らないなんて。