撫子

□SOSTENERE
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低く垂れ籠めた雲の所為で、夜でもないのに室内まで暗い。
手元のスタンドを点け、何気なく背後の窓を振り返ると、幾つもの水滴が細い線になって窓を濡らしていた。

……雨、か。

あの子は傘を持って来ただろうか。まさか濡れて帰るつもりじゃあるまいな…私は腕時計に目を落とす。
下校時間はとうに過ぎている…雨に降られる前に帰っただろうか、それとも誰か友人の傘に入れて貰っただろうか。

そのほうが、良いのだろうな。

彼女も何れは恋人を作り、あの年頃でなければ味わえぬ青春の彼是を謳歌すべきだ。
毎度私の気紛れに付き合う義理も無い、いや、そもそも私と彼女には何も無い。

らしくもなく自虐的になったところへ、何処からか音が流れ込んできた。
顔を上げ耳を澄ます。


彼女のヴァイオリンだ。


……この書類に目を通し終わったら、音を辿って捜しに行って。
小言の1つでも言ってやろう、まだ残っていたのかと。
それから………



遠くて近い、耳に届く残響

憂いの強い、ショパンの前奏曲(プレリュード)





吉羅×香穂子


S O S T E N E R E
Prelude〜OP.28-15




「…拉致、に近いですよね」
「人聞きの悪い。傘を持たぬ生徒を車で送ってやる理事長など、そうはいないぞ」
彼女がシートベルトをしたのを横目で確認し、ステアリングを握った。

先刻からの雨は徐々に本降りとなり、街中は色とりどりの傘で溢れている。
駅へと向かう親子連れ、家路を急ぐ会社員、肩を寄せ合う恋人達……

「何が食べたい?」
「……は?」
「聞こえなかったのか?」
「いえ、そうじゃなく…」
「この前は確か寿司だったな」
「違いますよ、イタリアンでした」
「そうだったか?ではフレンチにでもするか」
「制服でフレンチレストラン入る度胸は無いです」
「ほう、コンクールでヴァイオリンを弾く度胸はあるのに」
「それとこれとは違いますっ」

なんて事はない、いつもの軽口のやり取り。
私相手に物怖じしない、彼女のそんなところも気に入っている。

何度か下校途中の彼女を捕まえては、こうして食事に誘っている。
別に深い意味などなく、単に独りより誰かと一緒に過ごしたいと思っていたところへたまたま彼女がいた、ただそれだけの理由だった。
それを二度、三度繰り返し、休日に呼び出して嫌な顔をされた事もあった。


そしてやがて、私の中で彼女と過ごす時間が「普通」になっていった。
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