撫子

□伯牙絶弦
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楓葉萩花秋瑟瑟。

今夜聞君琵琶語、
如聽仙樂耳暫明。

莫辞更坐弾一曲、
爲君翻作琵琶行。



───白居易『琵琶行』







黎深&鳳珠&悠舜

伯 牙 絶 弦
はくがぜつげん







───「たったひとり」、だった。

正妃を置かず、数多いる妾妃には目もくれず、生涯で唯一人、心を捧げた美しく聡明なひと。
誰よりも強く、どこまでも優しく、その白磁の手は幾千の命を奪い、鉄臭を放つ鮮血に濡れた。

それすらも愛してた。

死に追いやったのが、たとえ自分なのだとしても。







───「たったひとり」の姉だった。

"彼女"の弟は、姉を喪ったその夜、暗闇で一人静かに座していた。
兇手としてしか生きられなかった姉。
服従させ、命令し、姉が他の命をそうしてきたように、今度は姉を使い捨てた王。
彼女が命を懸けて守ったものは"国"であって、"彩七家"ではないのに。
何の為に生きた。
誰の為に死んだ。

身の内に灯った蒼い炎が、ちりちりと音を立てる。
それは暗く、冷たく、恨めしそうに揺れながら、閉じた目蓋の奥に沈んでいった。


琴の音と共に。










秀麗が劉輝の教育係として後宮へ入るその、十年前───


朝廷の人事を司る吏部の若き官吏・楊修は、上司に報告すべき内容を記した書状を脇に携えていたが、肝心の上司の姿が見えない事に舌打ちをし、眼鏡を指で押し上げた。
仕方なく、そこらで書類の山に埋もれている下っ端官吏を掴まえて問い質す。

「紅吏部侍郎は何処へ?」
「い……いえ私には……」

目の下に隈を作った下っ端官吏は、上司の行方を曖昧に濁した。これは知っていて黙っているのではなく、本当に知らないのだという事を、楊修は理解した。
大仰に溜息を吐いた楊修は、机案に書状を叩き付け、踵を返す。
今朝、吏部へ事後承諾の形で下った"辞令"から、上司の行き先の見当は大体付いている。
が、わざわざ探して連れ戻す義理は無いしそんな暇も無いので、彼は彼の仕事の為だけに吏部を後にした。



仮面の美丈夫が中書省へと向かう途中、反対側の回廊を鬼の形相で迫り来る同期を見つけ、仮面の裏で眉根を寄せた。
目だけ交わすと無言で肩を並べて歩く。目的地は一緒である。
擦れ違う官吏は皆、海が割れるが如く壁にへばりついて道を開けた。

「……黎深、吏部は知っていたのか」
「知っていたらあんな辞令燃やしてやったわ」
「そうか……」

戸部の仮面侍郎・黄奇人は、隣で憤慨している同期を見てホッとした。もし吏部が下した辞令ならば、この天上天下唯我独尊男を本気で殴っていたかも知れない。
友人をよりによって茶州へ遣るなどと───

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