千歳

□桜花乱舞〜参〜
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「おう!帰ったぜ」

夜になり、浩二郎さんが戻って来ても、僕の心の闇が晴れる事はなかった。
「…おかえり。今日ね、隣のおばちゃんが大根くれたよ」
「おっ煮付けて食うか」

食事が終わるのが恐かった。今夜はただ眠りたかった。
此処へ来て一週間かそこら経つけれど、彼は毎晩僕を抱いた。僕も彼を求めていたのだけど…

「明日の夜は芝居でも観に行くか」
後片付けをしている僕の後で、畳に仰向けになった彼が言った。
「お芝居?」
「なんか京で評判の一座が江戸に来てるらしいんだ。観に行かねぇか」
僕はすすぎ終えた茶椀の水を切りながら、努めて明るく受け答えした。
「いいよ。じゃあこの前新調した振袖着て行こうかな」
「よし、んじゃ俺先に寝るわ」

僕は一瞬面食らって彼を振り向いた。
「ワリ、俺今日忙しかったんだ。おやすみ〜」

彼は背中で手をひらひらと振って、布団を敷くとあっさり潜り込んでしまった。
「お…やすみ…」
僕は内心ホッとした様な、淋しい様な、複雑な気分で夜を過ごし、朝を迎えた。



翌朝、彼を仕事に送り出した後、いつもの様に掃除をして、長屋の裏の共同井戸から水を汲み洗濯をし、昨日の残り物で昼食を済ませ、夕方には隣のおばちゃんに着付けをして貰って町へ出た。
行き交う人は大体が僕の金髪に驚いていたが、業平格子に金銀の砂子を摺らせた、藤色綸子の大振袖を纏った僕を指差し、或いは耳打ちで、「陽炎が帰って来たのは本当だった」と噂した。

……のちに、この噂が広まり、僕と浩二郎さんに思いも依らぬ運命が待っていたとは…この時の僕に知る術はなかった。


待ち合わせの茶屋に入った時も、全員の視線を感じたけれど、僕も流石にもう慣れて、ちょっとしなを作る余裕まで出てきた。
若い女の子がお茶を出しに来てくれた際、陽炎さんですよね、私舞台観てました、と、うなじまで赤く染めて僕を見た。
…現代でいうならファンなんだろうなぁ…なんて事を考えていたら、自然と右手が出て握手を促してしまい、自分でも笑っちゃった。
そっかこの時代に握手求める習慣なんてないんだっけ。

「…何やってんだ、オマエ」

後ろから浩二郎サンに頭をこづかれた。
「あっもう終わったの?お疲れ様」
「行くぞ〜」
「うん、あいたた、衿つかまないでよぅ」
猫のように襟首を掴まれて、僕達は茶屋を後にした。

「ねぇどうかな」
僕は歩きながらくるりと回ったりしてみせた。
彼はちらりと眉を寄せたきり何も言わない。
「…変かな、こんな頭だしね」
「馬鹿。俺はオマエを外に出したくないの」
「なんでさ」
「皆見るから」
「お芝居観ようっつったのそっちじゃん!」
「ここ2、3日よぉ、オマエ元気なかったみてぇだし…たまにはイイかな、と」

そう言って笑った浩二郎さんの言葉に僕は驚いた。
同時に、見透かされてる様で恥ずかしくなった……
「そら、着いたぞ」
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